「思想」カテゴリーアーカイブ

常識を疑え ~ 見た目がヤバい奴は本当にヤバいのか ~

皆さんはこの集団のことを知っているだろうか?

彼らは15年ほど前に世間を席巻したパナウェーブ研究所という新興宗教団体である。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/パナウェーブ研究所

彼らはこの世のあらゆる不都合を共産党員が流すスカラー電磁波によるものと位置付け、

スカラー電磁波から身を守るためには白い服を着ることが有効として全身を白装束で固めた集団である。

彼らは外見においてはこの流行を超越したファッション

内面においては多摩川のタマちゃんに餌をやるといった慈悲の精神http://denpa.s31.xrea.com/x/event/pana.html

と見た目と性格の良さを兼ね備えた集団であったため、

彼らとは正反対の性質を持つメディアの嫉妬に合い、奇怪な集団として過剰な報道を受けた。

彼らは白装束で移動したり、タマちゃんに餌をあげただけで、

何の根拠もなく某ム真理教のような危険組織として取り上げられたのである。

もちろん彼らはそうした危険組織とは無縁で、

そのことが判明するとメディアは何事もなかったかのように彼らへの報道をやめた。

しかし何も危険なことをしていないのに、危険組織のような扱いを受けた信者たちの心は傷ついたに違いない。

僕は彼らのエピソードを知って強いショックを受けた。

そこまでして彼らが伝えたかったことを知るためには実際に彼らになりきるしかない。

こうして僕の1日パナウェーブ研究員生活が始まった。

始める前はスカラー電磁波の存在に対して半信半疑だった僕だったが

実際に白装束をしてみると

スカラー電磁波を遮ることに成功したからか

いつもよりも風通しが良くなってとても快適だった。

やはり白装束の力は偉大だ。

研究員たちが白装束に傾倒したのも頷ける。

僕は白装束の効能を実感し、意気揚々と電車に乗り込んだ。

しかしそこにあったのは

異質な見た目をした者に対する社会の厳しい視線だった。

僕はいつものように座席に座っていた。

すると前に座った女性が僕と目があった瞬間、 どこかへ立ち去っていったのだ。

当初 ほかにいい席があったのだろう ぐらいの考えであった僕も

こうした立ち去りが1回だけでなく2回 3回と続くと

白装束が立ち去りの原因であることを確信した。

確かに白装束が某ム真理教のような危険組織を連想させるという考えは一理ある。

しかしここで一度冷静になって考えて欲しいのは

信者たちが地下鉄にサリンを撒いた時、彼らは白装束であったかどうかだ。

答はもちろんNOだ。

彼らは一般人と何ら変わりのない服装をしていたのだ。

この例からもわかるように本当にヤバいことをしている奴は

派手な格好などしない。

常に包丁を持って歩く殺人鬼がいるか?

そんなことをしたらすぐに国家権力に捕まるのがオチだ。

人を見た目で判断するのは愚の極みだ。

本当にヤバい奴というのは何食わぬ顔で普通の服装をして街に紛れこんでいるのだ。

これこそが パナウェーブ研究所が研究所生命をかけてまで伝えたかったことなのではないか。

僕たちはもう一度本当に危険な存在が誰なのか真剣に考える段階にきていると強く感じた1日研究員生活であった。 /p>

もはや横浜でマウントはとれない

出身地

初対面であれば必ず一度は使われるこの話題。

相手に馴染みのある場所や都会であることで話を有利に進めることができる。(通称マウントをとる)

神奈川出身の僕はこれまで横浜駅付近出身なことを利用してマウントを取り続けてきた。

というのもこれまで出会った人間の多くは神奈川県民。

彼らにとって横浜駅は世界の中心と言っても過言ではない。

遊ぶのも横浜 買い物するのも横浜 乗り換えするのも横浜。

なので僕はこれまで横浜駅付近出身と言う度に、「めっちゃ便利だね」「よく遊びに行く」
などといった好意的な反応をもらっていた。

こうして横浜出身というプライドはますます肥大化し、僕は横浜駅こそが日本の中心と信じて疑わなくなっていった。

                

しかし大学入学後、状況は大きく変わった。

もちろん大学には日本中から学生が集まっている。

その中には僕の想像を遥かに越える都会人も存在した。

まず僕が彼らに横浜駅付近出身であると伝えると、

やや余裕を滲ませた口調で「行ったことある」という反応や

「へー」のような特に興味を示さないといった神奈川ではあり得ない反応が返ってくる。

なんだこいつらは

それほど自分の出身地に自信があるのだろう。

そう確信して僕は彼らに出身地を問いただした。

すると新宿のあたりと答える。

「近くていいね~」
僕はそのくらいの反応しかできなかった。

というのも入学当初、僕の新宿に対する知識は大学までの通過駅というくらいで全く具体的なイメージはなかったからだ。

横浜駅というワードに一切恐れをなさない彼らが住む新宿とはなんなのか?

西口と東口の両方に繁華街を持つ横浜駅に勝てる訳がない。

そんな甘い考えで僕は人生で初めて新宿に乗り込んだ。

衝撃だった。

360度きらめくネオン 数えきれない出口の数

多種多様な人種 どこまでも永遠と続く活気

ここには全てのものがつまっていた。

世界の中心とはこういう場所のことを指すのか

僕は完全に井の中の蛙だった。

日本にはこんなにも栄えている場所があるのだ。

これまで横浜駅付近出身であることを誇ってきた自分が急に情けなくなってきた。

またそれと同時にまさしく世界の中心とも言える’新宿’に住んでいるやつらに対する畏敬の念が沸いてきた。

彼らはいったい何者なんだ?

そりゃ生まれた時から世界の中心をみてきたら横浜になんて反応するはずがない。

彼らにとって横浜の繁華街などただのおままごとに過ぎないのである。

世界の中心で飯を食い、世界の中心で遊び

そして世界の中心で愛を叫ぶ

そんな世界の中心に住める彼らの幸運を羨ましがらずにはいられない

 

他方 当初新鮮さを感じていた長距離通学も年月を重ねていくにつれて、

あまりにも無駄が多いと感じるようになった。

その時ふと浮かんで来たのは新宿住みの存在である。

彼らは僕が1限のために電車に乗っている間、

25駅の各駅停車地獄の終電に乗っている間、

おそらく寝ている。

僕が毎日通学に使っている3時間を丸々自由時間にすることができる。

しかも彼らは独り暮らしとは違って実家であるがゆえに学生の溜まり場になることもない。

ふざけてる。

生まれた場所が違うだけじゃないか。

何でこんなにも不平等なのか。

自転車通学? 早稲田住み? 

ふざけんな。

一度新宿を更地にして、土地を奪い合うバトルロワイアルを開催して欲しい。

お前らの住んでる場所はそれくらい価値のある場所だ。

ただこうして嫉妬をしていても仕方ない。

僕は以上の理由を使って真剣に新宿移住を両親へ提案した。

結果は惨敗だった。

僕がいくらなぜ都内で働いているのに都内に住まないのか問ても

両親はお金がない ローンが残っているの一点張り。

どうせならもういっそ田舎に住んでしまえばいいのに、

中途半端に便利な場所を選んでしまうのがなんとも悲しい。

僕は横浜に住むことによってお金以外のもっと大事なものを失っている気がしてならない。

サイゼリヤ西早稲田店にも頻繁に家族連れが訪れる。

彼らが後々新宿住みとしてマウントを取ってくるのかと思うと虫酸が走る。

しかしこればかりは目先の利益に囚われなかった親たちの先見の明を誉めるしかない。

このように新宿に住むというのは利便性を極めている。

大学や職場は近いし、遠出したいと思えば世界の中心なので、すぐにどこにでも行くことができる。

ああ もう横浜では満足できない。

実家が新宿にあればどれほど幸せなことか

来世の第一希望は新宿住みしかありえない。


足臭にまつわるエトセトラ

なぜ人の足は臭くなるのか。

生後20年間足臭に悩まされている僕にとってこの問題は笑い話ではすまない。

うっかり自分の足臭を嗅いで死亡する人生にはなりたくない。

足臭を持った者の人生は悲惨である。

学校では自分の使った靴をたらい回しにされ、家では足を洗うまでは家に入るなと罵られる。

足の臭いと人権は反比例していくのである。

足臭をなんとか打破したい。

はやく人間になりたい。

こうして僕の足臭との戦いがはじまった。

まず僕は足臭の原因を突き止めることにした。

しかし開始早々大きな見落としがあることに気づいた。

足臭は足が存在するために起こるのであって、足を切ってしまえば足臭は起きないのである。

なんだ 簡単なことじゃないか。

 足を切るために包丁を足に向けたが、

ここで足を使わない移動方法の苦しみがフラッシュバックした。

一生コロコロでしか移動できないなら、足臭の汚名を受けたほうがましである。

もう一度足臭解決法を真剣に考えた。

そして出た答えは放置であった。

足臭=悪という固定観念を捨てればいいのだ。

第一 臭いというのがどうして悪になるのか。

この世の美味しい食べ物はたいてい臭い。

チーズ 納豆 肉 魚 どの臭いもとてもいい臭いとは言えない。

つまり臭い=美味しい 美味しい=善 

臭い=善なのである。

となると臭いという言葉は全て褒め言葉だったのである。

僕はこれまで足臭を悪だと勝手に思い込んでいた。

汚名と感じていたのも全ては思い込みで、実際は褒め言葉だったのだ。

他人の善意を勝手に悪と決めつける。

思い込みというのは本当に怖い。

勝手に悪いことと思い込んでしまうのは良くない。

これからは足臭に誇りを持って生きていこう。

アルコールにまつわるエトセトラ

   楽しい=アルコール

僕は大学に通っていてこの考えが大学生の間で蔓延していることを日々痛感している。

インスタグラムのストーリーは乾杯と酒に酔った友人の姿、日々の会話は誰々は酔ったらやばい 最近飲み過ぎ。限界大学生だわ… とても悲しい。

酔ったらやばいという言葉は裏を返せば、酒に酔ってないときは普通のつまらない人間。

つまりそのひとの酒を飲んでいた時以外全てを否定するというとんでもない悪口なのである。

酒を飲んでいるときと、そうでないときとでは人格が違うという人間がしばしば存在するが、これは立派な二重人格である。

あの人は酒を飲むと人が変わるだなんて噂してる場合じゃない。 

早急に通院を進めるべきである。

限界

僕は近年この言葉が主に酒を大量に飲んだ時に会話やSNSなどで多く登場していると感じる。

確かに酒は大量に飲めばすぐに気持ち悪くなれるという点では手軽に限界を味わえるツールだ。(以下限界ツール)

しかし酒を覚える前、僕たちの中には勉強、部活、校外活動とありとあらゆる限界ツールがあったはずだ。

大学入学以降多くはそうした限界ツールから解放された。

代わりに僕たちは大学から覚えた酒という手軽な限界ツールに頼るようになってしまった。

人生の夏休みともいわれ、基本的に楽ばかりしている大学生は皆自らの人生に一定の苦しさを求めている。

「お前は楽そうでいいよな」だなんて言われて嬉しいやつは少ない。

だからみんな色んな限界ツールを使って自分の人生が苦しいかのように見せかける。

しかしその限界ツールが酒だけに固定されているように僕は感じる。



人の不幸は蜜の味という言葉にもあるように、人が苦しんでいるときというのは、基本的に面白い。

だがその苦しくなるまでの過程が使い古された酒ではせっかくの苦しいシーンが台無しだ。

この世界は限界ツールであふれている。

せっかく自分から限界を味わいに行くのなら、別の限界ツールを使って笑いをとったらどうだろうか。

僕の酒への考えはここ↓で彼がまとめています。よかったらご覧下さい。https://dobunezumidesu.hatenablog.com/entry/2018/10/19/171040

裸にまつわるエトセトラ

                  裸だったら何が悪い

この某草なぎ剛氏によるゲイノウ人生を賭けた問題提起から早10年がたとうとしている。

しかしいまだに私たち人類はこの深淵な議題に対して明確な回答を出せていない。

人間は元々裸だった。

僕が先日紹介した縄文人も裸だった。

なぜ人間は裸を捨てたのか。そしてそこにはどんな理由があったのか。いったい裸でいることにどんな問題があるのか。と疑問は尽きない。

今回は人類のさらなる発展に不可欠なのにも関わらず、数億年にわたって見過ごされてきたこの議題について考察していこうと思う。

まず裸を語るうえで切っても切れない関係にあるのは衣服の存在である。

現在多くの人類が衣服を着用していることから、衣服の誕生を紐解いていくことが、人類が裸を捨てた理由に近づくきっかけになるのは言うまでもない。

人類が衣服を着用するようになったのは約7万年前といわれている。

理由はいたって簡単。寒くなったからである。(wikipediaより)

寒くなったから服を着て暖をとる。あたりまえ。

正直この理論には突っ込む余地もないし、突っ込む気も起きない。

ここでの問題はその逆である。寒いという肉体的な理由で服を着始めたのにも関わらず、なぜ暑くなったときに服を脱がないのか。

しばしば通気性のよい服といった広告を見かけるが一番通気性がいいのは間違いなく全裸である。

そんなこと少し考えれば誰でもわかるはずだ。

暑いと言うなら裸になれ。

なぜ人間は裸になることを恐れるようになってしまったのか。

裸になることが問題視される理由の一つとして、しばしば性器の露出が挙げられる。

多くが他人の性器を気持ち悪く思うということに僕は異論はない。

しかし気持ち悪いという理由だけで性器を排せいきしようというなら、キモイ顔は常にガスマスクをつけなければならなくならず、

すだれ禿は常に帽子をかぶらなければならなくなる。

ブスと露出狂は3日で慣れるという言葉をあるように、人間はどんなに気持ち悪いものでも慣れてしまうのである。

ここで誤解して欲しくないのは、僕は裸になることが好きなだけで、必ずしも服の存在を否定しているわけではない。

寒い時には服を着るし、なんなら暑いときにも着ている。つまりただの服依存者だ。

服の暖をとれるという良さを理解しつつも、 裸になりたいときは裸になれる

そんな自由な世の中になって欲しい

それこそが某氏が伝えたかったメッセージだと僕は思う。


ネットとリアルにまつわるエトセトラ

僕は今日とてつもない虚無感に襲われた。

理由は一つしかない。某アプリで知り合った女性にドタキャンされたからだ。

2週間ほど僕は知らない映画があれば、内容を調べ、知らない曲があれば、その曲の良さを調べるといった相手の好みに徹底的に合わせるという退屈極まりない会話を行っていた。

そんななかでしびれを切らした僕は直接エンカウントを申し出た。すると彼女は日曜日であればエン可と答えた。

彼女は背が高く僕好みの外見をしていたため、正直まいこ上がった。そしてエンカ場所を決め、時間を決めようとしたその時歴史は動いた。

なんと急にトークルームから彼女  の名が消えたのだ。

僕はアプリの不具合を疑い何度もログインし直したが、結果は変わらなかった。

後に調べてみると相手にブロックされた場合にトークルームから名前が消えるとのこと。

確かにネットでの約束なんて、痕跡さえなくしてしまえば、いくらでも無かったことにできるし、関わりたくない人間をすぐに消すことができるのもネットの特権である。

だがいくらネットであってもそれを動かしているのは実際に生きている人であり、約束を破ったり、人を傷つけるようなことをすれば、必ずその人は悲しんでいるのである。

僕たちはリアルであれば、どんなことを言ったら他人が傷ついてしまうのかを無意識のうちに想像する。

どうしてネット上ではそうした想像力がなくなり、他人を傷つけるような行動を平気でとってしまうのだろうか。

以上の経験をもって改めて感じるのが、リアルで関わることの大切さである。ネットで会話できる量は限られている。

例えば数十通ラインを交わしたとしても、それを実際の会話に換算したら数分にも満たない会話になる。

つまりネット上でどれだけメッセージを交わしても、数分の立ち話にすらならないのである。

僕は某アプリを通して、そのことを痛感した。メッセージを数十通交わしただけで仲良くなった気になっていた。

冷静に考えれば数分話しただけの人間と会おうとはなかなか思わないだろう。

しかしここにジレンマが存在する。相手側がメッセージのみでしか、関わろうとしなかった場合、会うまでに途方もない時間が必要となってしまう。

そもそもネットではなぜこんなにもリアルの初対面を恐れるのか?

僕たちは小学校 中学 高校 大学 と数えきれないほどの初対面を経験している。そこでは一部を除いて、事前にやりとりを行うことなどない。

それでも僕たちは何の疑いも持たず周囲の人に話しかけ交遊を広げていく。

もう一度言うが、ネットを動かしているのはリアルに存在する人間である。

つまりネット=リアルなのである。リアルではダメだが、ネットではいいなんてものは存在しない。

僕はそこ履き違えないで生きる。