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マスク作りの持つパワー

マスク不足。

この言葉が世間を賑わせるようになってからどれだけの月日が経っただろうか。

街にはマスクを求め集まる人が溢れ、ネットには製造地不明の高額なマスクが溢れ、といった具合に依然としてマスク不足の現実は続いている。

森羅万象担当大臣安倍晋三氏渾身のマスク配布作戦も不良品が多く混じるなど根本的な問題解決に寄与しているとは言い難い。

そんな中、巷では今世紀最大と言えるであろうマスク作りブームが訪れている。

#手作りマスクや#マスク作りとひとたび検索をかければ、時間と自己顕示欲をもて余した人々たちによる自信の作品たちが画面を多い尽くす。

マスクが無いなら作れば良い。

石油が無いなら作れば良いといった具合で石炭から石油を作ろうとしていた戦時中を彷彿とさせるような日本の代用精神は今もなお脈々と受け継がれていたのだ。

それにしても老脈男女をこれほどまでに熱狂させるマスク作りとはいったい何なのか。

彼らは単に「マスクが無いから」という固定観念に縛られ、半強制的にマスクを作っているのか。

はたまたマスク作りに人々を興奮させる強烈な魅力が存在するのか。

家庭科の授業以来一切裁縫に触れていない僕の想像力では「マスク作り」が生み出す化学反応が何なのか全く分からなかった。

想像できないなら創造しろ。

某有名動画配信者が以前語っていたこの言葉のように、世の中には当事者にしか理解し得ない感情がある。

実際にマスクを作ってみれば、マスク作りが持つ力を理解できるかもしれない。

こうして僕はマスク作りを始めた。

マスク作りに必要な物は布、ヒモ、針、糸とそれほど多くはない。

僕はまずメルカリにて600円で購入した正体不明の白い布を裁断し三つ折りにした。

マスク作りのサイトには横57cm×縦21cmで裁断すると書いてあったが、生地の長さが縦30cmだったため、9cmという微妙な長さの生地が余ることを嫌い、縦の長さの調整を怠った。

まあ僕は顔がデカいから大丈夫だろう。

#デカさは強さ

この怠惰が後に大きな悲劇を呼ぶこととなる。

次に左端と右端を2cm折り、縫い合わせた。

文章にすればたった一秒で終わるこの工程も裁縫不足の僕にとっては永遠に感じるようなものであった。

固すぎる布

たま結び失敗による糸のすり抜け

原因不明の絡まり

針の紛失

目立つ縫い目

なぜ人々はこんなにも面倒な作業に熱中するのか。

当時の僕には全く理解することができなかった。

こうして悪戦苦闘すること1時間、ようやく両端を縫い合わせることに成功した。

あとはヒモをつけるだけ。

あいにく僕はこの時マスクのヒモを切らしていたため、使い捨てマスクのヒモを切って用いることにした。

マスクを使ってマスクを作る。

マスク不足の解消には全く寄与していないこの方法だが、ただマスクを作りたいだけの僕にとっては何の関係もない。

僕が解消したいのはマスク不足ではなく、マスク作りの持つパワーを理解できないということから端を発するストレスだ。

つまりハンドメイドマスクパワーをノットアンダースタンドなのがストレスフルなのだ。

そんな訳で僕は使い捨てマスクのヒモを左右四ヶ所に縫い合わせ、初めてのマスクを完成させた。

デカい。 明らかにデカい。

布マスクは洗う度に縮むため、大きめに作ったほうが良いという定説があるが、それを考慮してもこのマスクはデカ過ぎる。

21cmという推奨を無視したことが大きな仇となった。

仮に政府が配布していたら間違いなく暴動が起きるレベルのサイズである。

試しにこの状態で近所を歩いたところ驚異の2度見率50%超えを獲得した。

これはコスプレ時の2度見率に匹敵する高い数字である。

色も形も均一化された市販マスクでは決してなし得ない結果であろう。

僕は手作りの持つパワーが何たるかをようやく実感したような気がした。

手作りマスクは自由度が高い。

布もサイズもカラーも作り手の思うがままだ。

数多くの楽しみが消えた殺伐としたご時世では、マスク作りが気軽に自らの個性を出せる自由度の高いコンテンツとして人気を博しているのだろう。

単に生活必需品製造に留まらず、作り手の創作意欲も掻き立てる。

これこそがマスク作りの持つパワーだと僕は感じた。

PS 僕の作ったマスクは着用2日目でヒモが外れた。

答え合わせ

#ペスト医師#中世ヨーロッパ#ペスト#先輩#パンデミック#致死率60%#死者数2億人#北里柴三郎#発見#過去の病気ではない#死神#歴史#ロマン#歴史秘話ヒストリア#マスクがないならペストマスク#マスク男子#恐怖#怖さと面白さは紙一重#ペストに負けるな#おうち時間#うちですごそう

甲子園を観ているといつも幼少期の奇妙な性癖を思い出す

例年熱い戦いが繰り広げられ、日本の夏の風物詩として君臨する高校野球。

甲子園という大舞台のために全てをかける球児たちの姿に心打たれ、毎年現地やテレビの前で観戦するファンも多い。

僕もそうした高校野球ファンの1人である。

元高校球児であった父の影響もあり、僕は7歳の頃から高校野球を観始めた。

当時は新聞にあったトーナメント表を見つけてはハサミで切り抜き、毎日ニュースや新聞で結果を確認して書き込み、

大会が終わると「高校野球神奈川グラフ」や「甲子園の星」といった高校野球雑誌を購入して隅々まで読み込んでいた。

両親が共働きなため、夏休みになると小児収容施設である「学童保育」に収容されていた僕にとって学童をサボって観る高校野球は夏休みの数少ない娯楽であった。

こうした僕の高校野球好きは夏休みだけにとどまらず、高校野球の情報を集めるために、

甲子園が終わった後も「高校野球事件史」「名門野球部の甲子園伝説」などの雑誌を読み込み、高校野球の知識を蓄えていった。

こうした僕の高校野球への愛が別の形に変化してしまっていたのもちょうどこの頃であった。

僕が自慰行為を覚えたのは7歳の時であった。

これはちょうど僕が高校野球を見始めた時期と重なる

そう

当時の僕の自慰行為のネタは「高校野球」たったのだ。

実際に当時読んでいた雑誌を見ると、特定の選手にいくつか下の写真のようなマークがつけてある。

おそらく僕は当時このマークがついていた選手で自慰行為をしていたのだろう。

マークがついている選手たちには共通点がある

それは「大事な場面で結果を残せていない」ということだ。

マークのついた試合ということではないが、マークのついた選手はみな後の試合で勝敗にかかわる場面で打てなかったり、エラーをしたりしている。

当時の僕も子ども心ながらに高校野球の選手たちはとてつもない努力を重ねているということを理解していた。

夏の大会という集大成のために、途方もない練習を重ねたのにも関わらず、結果を残すことができない。

僕はそんな「努力が報われない姿」に興奮し、その感情の高ぶりを性的な興奮と混同してしまっていたのだと思う。

時が経つと共にいつの間にか高校野球にそうした興奮を覚えることは無くなったが、

現在のセックスに関心を持てないという僕の性癖を考えると、いまだにこの「報われない努力」に興奮するという根幹は変わっていないと思う。

僕の脳内はいまだに「報われない努力」に対して覚えた興奮を性的興奮と誤解したままなのだ。

いうなれば 僕はおそらく人生観フェチなのだろう。

この先 僕の性癖はどのように変わっていくのか。

現段階で言えるのは「報われない努力」への過度な崇拝は変わることはないということだけだ。

PS ビリビリ動画(ニコニコ動画の中国版)のチャンネルを作りました。良かったら観て下さいhttps://www.bilibili.com/video/av64564824

バナナは人を笑顔にする

僕は以前大学でこんな企画に参加したことがある。

「バナナの格好でバナナを配る。」

当時の様子はしゃおじょんブログにまとめているのでぜひ見てほしい。

このバナナ配布企画は、配布予定のバナナが一瞬で無くなるなど、学生の間で大いに好評を博した。

またバナナを受け取った学生たちが、みんな笑顔になっていたことから、

僕たちはバナナに不思議な力があることを確信するようになり、いつかこのバナナ配布企画の規模を拡大したいと考えていた。

最初の配布企画成功から半年、ついにこの野望は東京から約3000km離れた「香港」の地で実現されたのであった。

前日の「ピンポンマンション」企画成功によって調子に乗っていた僕は朝起きると、朝食を適当に済ませた後、バナナコスプレに着替え、すぐにスーパーへと向かった。

あった!

流石は果物の王様バナナ。

フルーツ大国香港でも、他のフルーツを押し退け、圧倒的な存在感を誇っていた。

僕は迷わずこのバナナたちを手に取り、次々とかごの中へ入れていった。

「カモン バナナ!!」

レジの方から明るい声が聞こえた。

振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた店員の姿があった。

多種多様な人種で溢れる香港でも、バナナの格好をした者が大量のバナナを買い占める光景は珍しいのだろう。

僕は彼女らに呼ばれるがまま会計を済ませ、

宿に程近い香港の大都市「尖沙咀」に向かった。

いざ駅前に陣取り、バナナ配布を始めようとした時、僕はある問題点に気づいた。

「道が狭すぎる」

先ほどの写真からも若干分かると思うが、

駅の出口はとても狭く、また繁華街ということで人がとても多く、道路を陣取るのは明らかな迷惑行為であるように思えた。

そこで僕は歩きながらバナナを配布していく作戦に切り替えることにした。

道行く多くの人々はこのバナナ男に興味を持ち、「Banana!」「香蕉人! (中国語でバナナ男)」と声をかけてくれたが、なかなかバナナを受け取ってくれる人はいない。

無理もない。今回バナナ配布を行ったのは最高気温が35度を超える猛暑日の真っ昼間。

多くの人々は謎のバナナ男が配るバナナなど食べたくないはずだ。

僕はこの状況を何とか打破しようと、

「Does anyone like banana? (バナナが好きな奴はいるか?)」と叫びながら歩いたり、

「Iam bananaman (俺はバナナ男だ)」と言って実際にバナナを食べるパフォーマンスを見せたが、全く効果は無かった。

「バナナは配布は香港ではウケないのか。」

そう落ち込みかけていたその時、

僕は街中にバナナを求めているであろう大衆の姿があるのを見つけた。

「いける」

そう確信した僕はお決まりの「Does anyone likes banana」で声をかけた。

すると驚くことに彼らは我先にと言わんばかりに僕にバナナを求めてきた。

写真は群衆の裏から撮ったものです。表から撮るのを忘れていました。

「やはりバナナは世界共通なんだ。」

僕は改めてバナナの凄さに感動し、彼らの要望通りにバナナを配ろうとした、例の奴らが近づいていることも知らずに…

「Get out! 」突然背後から怒りに満ちた声が僕を襲った。

どうやらこの群衆たちはある施設の入場待ちの人々ならしく、この施設の警備員が列の管理を行っていた。

先ほどの写真の左はじに少し写っている

この警備員が列の秩序を乱そうとしているとして、僕に注意してきたのだ。

僕は当初 聞こえないふりをしていたのだが、

彼は僕のことを捕らえようとする勢いで近づいてきたので、僕はとっさに逃げるほかなかった。

海外で一番恐ろしいのは国家権力に捕まることだ。言葉も通じないし、日本の常識も通じない。

さらに僕はこの時パスポートを持っていなかったので、もし捕まってしまえば、何をされるかは全く分からない。

僕は完全にビビって、バナナ配布もそこそこにして、すぐ彼の目が届かないところへ逃げた。

「もうバナナ配布をやめようか」

諦めのムードが僕の中で生まれていた。

しかしここで僕の脳裏の中に、以前 日本でバナナ配布をした時にも国家権力の妨害を受けそうになったことが浮かんできた。http://nowloading424.info/%e4%b8%87%e3%81%8c%e4%b8%80%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%aa%e3%82%93%e3%81%aa%e3%82%93%e3%81%a0/

あの時は一度いなくなったふりをして、もう一度戻ってバナナを配っていた。

「あの頃に負けてはいけない。」

僕は当時の気持ちを思い出し、道を一週してすぐに群衆の元へ戻り、警備員がいなくなった隙をついてバナナを配った。

僕が再び姿を現すと、群衆は僕に向かって手を振り声援を送ってくれた。

僕は彼らの気持ちに答えるために、必死でバナナを配った。そして配り終わって辺りを見渡すと、バナナをもらった人々がみんな笑顔になっていることに気づいた。

もはやバナナに不思議な力があるということに疑いの余地はないだろう。

だから僕は最後にこう言いたい。

「バナナは人を笑顔にする」

伝えたいことも伝えられない世の中を売り飛ばしたい

僕はときおりこんな質問を受けることがある。

「買ったコスプレはどうしてるの?」

僕がこれまで買ってきたコスプレの衣装は全部で20着を越えている。

その全てを僕の4.5畳の部屋に詰め込んでしまえば、僕の部屋は近隣住民からの村八分の対象となってしまうだろう。

じゃあどうしているのか?

答えは簡単。「メルカリへの出品」だ。

「一度着たコスプレなんて売れるの?」といった意見もあるかもしれないが、

何を隠そう世は空前のコスプレブーム。

僕が出品したコスプレのほとんどは一週間もたたない内にばんばん売れていく。

中には買った額よりも高く売れるものもあるほどだ。

とりあえず就職したくないという理由で企業に手を出そうとする大学生はいますぐコスプレ転売を始めるべきである。

しかしこのコスプレブームにすら乗り損ねてしまった憐れなコスプレたちも当然のごとく存在する。

僕は基本的に1度着たコスプレは2度と着ないというポリシーを持っている。

そのためあえなく売れ残ったコスプレたちは二度と日の目を見ることなく朽ちていく。

いかにしてこのコスプレたちにもう一度晴れ舞台を与えるか。

メルカリではコスプレを着た写真を商品説明に加えることができる。

しかし本当のコスプレの素晴らしさというのは実際に見てみなければ分からない。

となると答えは1つ。

「実際に着る」だ。

僕にとって今まで着てきたコスプレたちは

大学生活という人生の夏休みを共に戦った戦友だ。

この戦友たちが押し入れの奥で腐っていく姿を黙って見ている訳にはいかない。

僕はこれまでのポリシーを破り、

実際に多くの学生が参加する講義に売れ残ったコスプレで参戦し戦友の素晴らしさを宣伝することにした。

1着目のコスプレはその名も

「うんちの男体盛り~泣き顔を添えて~」だ

このコスプレは悪名高き禁酒会時代に着たことで無名なコスプレだ。

当時は「酒をこの世から無くす」という危険思想をヒントに「うんこが汚いわけないだろ」という狂気の理論を打ち出していた。

僕はこの理論はうんちのコスプレをしたからこそできたのであると信じている。

普段から真面目な生活を送る大学生もみんなどこか狂気性を必ず持っているはずだ。

その狂気性を手軽に引き出すことのできるうんちコスプレは売れ残っているのが不思議なほどの良品である。

僕はこのうんちコスプレの素晴らしさを広めるために大事な入場服にこいつを選んだ。

そしていつものように20分ほど遅刻して、講義に参加すると、僕の狙い通り、50人ほどの受講者の視線が一気に集まった。

普段ならここで何事もなかったかのようにうんちコスプレのまま講義を受けるのだが、今日は他のコスプレの宣伝もある。

この視線が集まるという一瞬のチャンスを逃してはいけない。

僕は迷わず、うんちコスプレを脱いで2着目の

「意味不明な奴はインナーにスイカを着ている」に着替えた。

このコスプレは僕が本ブログの方向性について1つの手がかりを見つけた時に着ていた大変思い出深いコスプレだ。

もしあの時スイカを着ていなければ、

僕は未だにこのブログの方向性を定めることができていなかったと思う。

スイカコスプレが僕の進路を決めてくれたといっても過言ではない。

これだけ素晴らしさスイカコスプレを僕の手元だけに置いておくのは勿体ない。

僕が今回参加した講義では、就活を控えた3年生がとても多い。

彼らもまた僕のようにスイカコスプレをして自分の進路を明確にして欲しい。

そんな思いを込めて僕は2着目にスイカを選び、講義の大半をスイカコスプレで過ごした。

そして講義も終盤に差し掛かり、いつものようにコメントペーパーを書く時間を迎えた。

僕は遅刻したため、コメントペーパーをもらえなかったことを口実に前へ出て最後のコスプレ宣伝をしようと考えた。

最後の3着目は

「オオカミはあなたにかけがえのない経験を届けます。」だ。

このコスプレは僕が人生で初めて職務質問というかけがえのない貴重な体験を手に入れた時に着ていたとても思い出深いコスプレだ。

オオカミコスプレをしていなければ、そのような経験は間違いなく手に入れることが出来なかっただろう。

このオオカミコスプレはそうした貴重な体験を手繰り寄せる不思議な力を持っている。

いま売れ残っているのは間違いないなく奇跡と言えるだろう。

就活でアピールできるような貴重な体験を求めている大学生たちにピッタリの代物だ。

僕はこのオオカミコスプレの貴重性を伝えるために、オオカミマスクを被って前へ出た。

さっきまでうんちコスプレをしていたやつが急にオオカミに変わっていたら、「こいつ何着持ってるんだ?」といって

いくら他人に興味の無い大学生たちでも気になってメルカリのアカウントを聞いて来るだろう。

しかし現実は残酷だった。

周囲からはクスクスといった冷笑がこだまし、

先生からは

「何やってるんですか?」「(頭)大丈夫ですか?」と聞かれる始末。

僕のコスプレにかけた思いは全く伝わることはなく、ただただ50人の前でコスプレでスベるという醜態を晒しただけであった。

伝えることというのは本当に難しい。

時間制限のないブログと違って、

現実世界で僕に与えられる時間はとても短い。

僕はこれまでこの短い時間で、自分を伝えるのにはコスプレという視覚データを用いるのが一番だと考えていたが、

今回の経験からコスプレだけで何かを伝えるというのはとても難しいと感じた。

コスプレを超越した何かを生み出す。

今後の課題はこれになるのだろう。

ハプニングを引き寄せろ

僕はこれまで様々なコスプレに挑戦してきた。

その中にはクオリティが低く、

客観的に見れば面白くないコスプレもたくさんあった。

鋼のメンタルを持ってると思われがちな

僕でも自分が体を張って実行したコスプレが

何度もスベってしまえばなかなか厳しいものがある。

なぜ僕はコスプレを続けることができていたのだろうか?

答えは当たり前過ぎて思いつかないようなところにあった。

先日 僕は友人と共にいつもと同じように

バイト先でお酒を飲んでいた。

その時 友人の一人がふとこんなことを言った。

「俺たちは誰か受け入れてくれる人がいると無茶なことができる。」

僕はこの言葉に衝撃を受けた。

確かに僕がコスプレをやっていた日は

ほとんどの場合しゃおじょんなどの

普段大学で仲良くするメンバーと会っていた。

彼らはとても優しい奴らなので、

コスプレのクオリティに関係なく、

一定の反応をしてくれていた。

当時はたまたま授業のある日は

必ずどこかしらで授業が

かぶっていたというのもあるが、

「彼らの反応がある」という安心感に

甘えていたという部分があったということは

否定できない。

そこで 僕はいままで自分ができていなかったことに挑戦するという意味で、

彼らに一度も会わない日に、

知り合いが一人もいない講義中、

コスプレをすることに決めた。

コスプレの内容はもちろん…

進撃の巨人の超大型巨人だ。

春休みに次のコスプレをアマゾンで探していた時、

僕はこいつの圧倒的な存在感に一目惚れした。

これまではどんなタイミングであれ、

僕が教室に入った瞬間、

僕のサクラしゃおじょんがゲラゲラ笑っていた。

しかし今日 しゃおじょんはいない。

入るタイミングを間違えれば、

盛大にスベることもありうる。

これまで無意識にサクラがいるところでのみ

コスプレを行うことでスベり知らずを

実現してきた僕はスベり倒した時に

どのような感情が沸き上がるのかはわからない。

僕はある戦略を考え出した。

今回 僕が参加する講義は200人ほどが入る中教室で、

ドアが教室の前面のみにあり、

遅刻した者がドアを開けると

それなりの音がしてみんなの注目が集まる。

僕はこの特性を逆手にとって

あえて遅刻してみんなの注目を一気に集めることに決めた。

こうして万全の戦略を定めた僕は、

いままでとは違った緊張感を覚えながら、

教室に入った。

僕が教室に入った瞬間、

狙い通りその場にいた全員の視線が

僕のもとに集中した。

そして彼らはまるで原作に登場する市民たちのように

突如現れた超大型巨人になす術なく、

薄ら笑いを浮かべていた。

僕のモットーはできるだけ他人に迷惑をかけないだ。

もちろん超大型巨人の登場に関係なく講義は続く。

なにかパフォーマンスをして邪魔をすることはあってはならない。

僕はいつも通り 空いてることを信じて後ろの席に向かって歩き始めた。

しかしここで僕のなかで一つ誤算が生じていた。

「前が見えない」

写真を見てお分かりの方もいると思うが、

超大型巨人は目に穴が空いていない。

大きい道であれば、なんとなく前が見えるのだが、

机と机の間みたいな小さな道では、

ほとんど視界がきかない。

僕は視界がきかない不安から、

つい早足で通路を通ろうとした。

足下にある超大型バッグたちに気づくこともなく…。

僕は超大型バッグにつまずき、あえなく床に手をついた。

すると これまでの笑ってはいけないという空気から

解放されたような乾いた笑い声があちこちから聞こえた。

僕はこの時一つの真理にたどり着いた。

人が本当におもしろいと思うのは

「ハプニング」だ。

ただ僕がコスプレをしているだけでは、

僕による計算された笑いであり、

その計算がバレてしまえば、

笑いをこらえることもできるが、

僕を含めて誰も予想できなかった

「ハプニング」はこらえようと思わせる前に

勝手に体を反応させる力がある。

このことはこれまで必ず周りに笑ってくれる人がいるという環境にいたら、

絶対に気づかなかったことだ。

ハプニングは起こそうとして起こせるものではない。

しかし何も行動しなければ、

絶対にハプニングは起こらない。

周りに関係なく行動することの大切さがよくわかった今日のコスプレだった。

コスプレが世界を救う

ここ数ヵ月コスプレに向き合ってきたのは

誰が何と言おうと僕だと思う。

日本では雨の日も風の日も

冬の寒さや同級生の冷たい視線にも負けず、

毎日コスプレで登校し続けた。

日本では自称コスプレ王の座を

自称欲しいままにしてきた僕だが、

1つ成し遂げられていないことがあった。

「海外でのコスプレ」

僕はまだ海外でコスプレをしたことがない。

前回北京に行った時はコスプレ道具を忘れるという

自称コスプレ王にありがちなミスをしてしまったので

コスプレをすることはできなかった。

なので今回は僕の相棒ともいえる

牛マスクと牛パジャマを持っていった。

(日本での参考画像)

台湾はとても酪農が盛んな国で、

牛乳がスーパーやコンビニでたくさん売られている。

この事実にいち早く気づいた僕は

「牛の格好をして牛乳を買う」という

超古典的なギャグをして、

台湾でコスプレがウケるのかどうか試そうと考えた。

当初 僕は久しぶりにコスプレをするということもあって、

かなり高揚していたが、

いざ 牛のマスクを被ろうとすると、

1つの不安が頭をよぎった。

「もし牛のコスプレをしたせいで殺されたら…」

僕は以前全身白荘束のコスプレをしたことがある。

その時にアメリカに住んでいたことがある友達が

「お前 アメリカだったら確実に殺されてるよ」

と指摘した。

冷静に考えれば当時の僕の格好は

白人至上主義団体KKKの格好に酷似していて、

人種主義をタブーとするアメリカでは、

明らかに一線を越えている。

当然 僕に人種差別をするつもりがあったわけではないが、

海外では気づかぬうちに一線を越えてしまうことがある。

もし台湾で牛の格好をすることがタブーだったら…。

僕は一瞬 恐怖でコスプレをせずに

宿舎に引き返そうかと思った。

しかし 僕は「海外でコスプレをする」という

強い覚悟を持って台湾に来た。

もはやコスプレをするためだけに

台湾に来たと言っても過言ではない。

それなのにこの台湾でなにもしないでどうする。

僕は意を決して牛マスクを被った。

結果は僕の不安など軽々と吹き飛ばすほど

爽快なものだった。

レジで並んでいたお客さん、スーパーの店員

道行く歩行者、みんな僕を見て笑顔になっていた。

台湾の交通関係上、

視界がほぼ失われる牛マスクでの活動は危険なため、

牛マスクをしていた時間は非常に短かったが、

それでも人々の反応は日本以上だった。

「面白い」という感情は

その人が育った環境に大きく影響されるので、

世界共通の笑いを生み出すのは難しい。

日本で成功を収めたお笑い芸人が

海外では苦戦するということもざらにある。

ただ僕はこの日 「コスプレ」は

世界共通の笑いを生み出すポテンシャルがあるということを確信した。

コスプレは世界中を笑顔にできるのだ。

欲望の国

「ディズニーは本当に楽しいのか?」

僕は長年ずっとこの疑問を抱えていた。

世間では「夢の国」と持て囃され、

SNSではディズニーに行った投稿が溢れ、

多くのいいねを貰っている。

まるで娯楽の頂点にディズニーがあるかのような風潮すら感じる。

僕も以前こうした風潮に流され、

ディズニーに行ったことがある。

確かにある程度楽しさはあったが、

5時間近い待ち時間や僕自信のディズニーへの無知もあり、

楽しみ切れない点も多く、

娯楽の頂点であるかと聞かれれば微妙だと感じた。

そんな苦い経験から5年がたった。



現在もディズニーは

当時と変わらず覇権を握り続けている。

僕はふと思った。

「ディズニーはとても楽しいのではないか?

僕が斜に構えていただけなのではないか?」

こうして僕はこれまでの先入観を捨て、

ディズニーと真剣に向き合うことにした。

僕はまずディズニーを最高に楽しむ条件を見出だすために、

instagramのディズニー投稿を徹底的に研究した。

目眩がするほどに眩しいディズニー投稿を見ていくうちに

僕はディズニー投稿の多くが男女数人のグループであることに気づいた。

つまりディズニーを楽しむうえでの第一条件は

  • 男女数人のグループで行く

この条件を満たすために、

僕はいま一番コミットしてるコミュニティである

大学の中国文学コースのグループで呼び掛けてみることにした。

昨年の4月から始まったコースとしての活動。

様々なテストや課題を乗り越え、

その度に打ち上げをして結束を深めてきたコースのメンバー。

彼らにこの娯楽の頂点に君臨するディズニーの誘いをすれば、

必ず乗ってくれるに違いない。

そんな淡い期待は見るも無惨に打ち砕かれた。

残酷なことに僕以外投票する者は誰もいなかった。

考えてみれば当然である。

ご存じの通り僕は毎日コスプレをしている。

コスプレを始めた当初はコースのメンバーも

一定の反応をしていたが、

最近は、コスプレした僕の姿に飽きて、

明らかに反応が薄くなっていた。

つまり僕は明らかにコース内で浮いていたのだ。

毎日変な格好をしている浮いた奴が

急にディズニーに誘ってきたら、

この反応になるのも無理はない。



しかし幸いなことにこの世には「1人ディズニー」

という言葉もある。

娯楽の頂点に君臨する夢の国ディズニーランドは

1人でも思う存分楽しめるはずなのだ。

僕は迷わず1人ディズニーをすることに決めた。

ディズニーランドといえばまずはアトラクションだ。

人の並びができづらい入園開始直後に

アトラクションを乗り回すのはテーマパークの基本だろう。

僕もこの基本に習って多くのアトラクションに乗った。

さすがは夢の国。

どのアトラクションもレベルが高く、

それなりに楽しかった。

しかし僕はここである違和感を覚えた。

入園直後はこの違和感の正体が、

よくわからなかった。

ディズニー満喫を試みるうちに、

この違和感が現れていくこととなった。



ディズニーといえば写真撮影だ。

ディズニーはアトラクションの待ち時間が長い。

また非日常的な空間であることから、

写真撮影は暇つぶしとSNS映えの両方を可能にする

ディズニーにピッタリの娯楽である。

ディズニーを満喫するうえで、

この写真撮影は欠かせない。

僕は再びディズニー投稿を徹底的に研究し、

シンデレラ城前での写真が最も映えるという結論を導きだした。

もちろん僕の他にも多くの者が写真を取っていた。

ここで僕は最初に感じた違和感の正体に気づいた。

ディズニーに来ている者は

待ち時間はおろかアトラクション中にも写真をとっていた。

これらの写真の多くはSNSに載せられ、

いいねという名の承認欲求を

満たす材料として使われていくのだろう。

もしかするとディズニーは

アトラクションを純粋に楽しむテーマパークではなく

仲間たちと自分が最も映える写真を

撮るためのスタジオなのかもしれない。

僕が感じた違和感の正体はこれだ。

つまり最も重要なのは「ディズニーで楽しむ」ことではなく、

「ディズニーに行ったという事実を残す」ことなのかもしれない。

ディズニーはもはや「夢の国」でもなんでもない。

行った者の承認欲求満たす道具となる「欲望の国」なのだ。



コスプレコレクション 2018 part2

先日僕はコスプレコレクション2018

と称してこれまでのコスプレをまとめようと試みた。

しかしコスプレの数が思った以上に多く、

全てのコスプレをまとめることができなかった。

そこで今回は前回載せきれなかったコスプレを紹介していこうと思う。



① 12月4日 宇宙人 「ニンゲン コワイ」

② 12月5日 うんこ 「うんこが汚いわけないだろ」

③ 狂人 12月8日 「いきなりCHINA」

(マイナス10℃)

④ 100円玉 12月11日 100円玉の日



⑤ スイカ 12月13日 「メロンとスイカとレモン」

⑥ 青 12月18日  「ラッキーカラーを信じようぜ」

⑦ レイザーラモンHG 12月19日 「一発屋はすごいだろ」

⑧ 力士 12月20日 「強さが全て」

⑨ 木 12月24日 「ヒッチハイク×クリスマスツリー」



クスリ ダメ ゼッタイ

野球界。

日本の国民的スポーツとも言える野球はこれまで

数えきれないほどのスターを生んできた。

そんなスター達の中でも、

一際輝かしい実績と人気を誇った真のスーパースターがいる。

清原 和博

歴代5位となるプロ野球通算525本塁打や

甲子園通算最多本塁打記録13本といった

野球の実績も去ることながら、

その強面や外見や豪快な私生活から

「番長」の愛称で親しまれ、

プロ野球人気を牽引した。 



また今のプロ野球選手ではあり得ないような破天荒な言動、

これだけの実績を残していながら、

個人タイトルとは無縁の「無冠の帝王」であった点、

そして引退後には覚醒と

とにかくネタに尽きない唯一無二のスーパースターであり、

まさしく「意味不明な男」でもある。



長らく清原氏は僕にとって雲の上の存在であったが、

先日僕の数少ない友人の1人であるみやもやし

「あれ?はいぐ~ 若い頃の清原に似てね?」と言ってきた。

僕はこれまで誰かに似ていると言われることは、

中学時代に一度だけ嵐の二宮に似ていると言われて以来

ほとんど無かったのでとても嬉しかった。

それも かのスーパースター清原氏に似ていると言われるのは

このうえない光栄だ。

僕も真の「意味不明な奴」になるために、

ぜひ清原氏のスター性にあやかりたい。

こうして僕の清原生活が始まった。

「野球人たるもの常にバットを大切にすべし。」

清原氏は野球道具をとても大切にしていたとされている。

現役時代はバットを抱き抱えて寝ていたというくらい

バットを大切にしていたという

エピソードも耳にした。

野球人にとってのバットの大切さを痛感した僕は

電車、授業、バイト先

ありとあらゆる場所に

ライオンズブルーのバットを持ち込んだ。

当初 清原氏をも葬った国家権力の妨害が危惧されたが、

バットを持った覚醒者に もはや手を出す者はおらず、

バットの強さを改めて実感した。

この強いバットを持ち歩いていれば、

どんな奴がかかってきても、

こいつで仕留めることができる。

僕はなんだか自分がとても強くなった気がして、

自信がみなぎってきた。

この強さを示すならバッティングしかない。

僕は迷わずバッティングセンターに向かった。

しかしそこで待っていたのは残酷な現実だった。

清原氏が現役時代に打っていたであろう150kmの半分の75kmにすら

全くタイミングが合わず空振りを繰り返した。

僕は完全に誤解していた。

清原氏の格好をして、金属バットを持ったことで、

勝手に自分が強くなった思っていた。

これは明らかに幻覚だ。

清原氏も晩年は幻覚に悩まされていたそうだ。

おそらく僕も同じ症状が現れたのだろう。

安易に覚醒者のコスプレをしてはいけない。

そう強く感じた清原生活だった。