甲子園を観ているといつも幼少期の奇妙な性癖を思い出す

例年熱い戦いが繰り広げられ、日本の夏の風物詩として君臨する高校野球。

甲子園という大舞台のために全てをかける球児たちの姿に心打たれ、毎年現地やテレビの前で観戦するファンも多い。

僕もそうした高校野球ファンの1人である。

元高校球児であった父の影響もあり、僕は7歳の頃から高校野球を観始めた。

当時は新聞にあったトーナメント表を見つけてはハサミで切り抜き、毎日ニュースや新聞で結果を確認して書き込み、

大会が終わると「高校野球神奈川グラフ」や「甲子園の星」といった高校野球雑誌を購入して隅々まで読み込んでいた。

両親が共働きなため、夏休みになると小児収容施設である「学童保育」に収容されていた僕にとって学童をサボって観る高校野球は夏休みの数少ない娯楽であった。

こうした僕の高校野球好きは夏休みだけにとどまらず、高校野球の情報を集めるために、

甲子園が終わった後も「高校野球事件史」「名門野球部の甲子園伝説」などの雑誌を読み込み、高校野球の知識を蓄えていった。

こうした僕の高校野球への愛が別の形に変化してしまっていたのもちょうどこの頃であった。

僕が自慰行為を覚えたのは7歳の時であった。

これはちょうど僕が高校野球を見始めた時期と重なる

そう

当時の僕の自慰行為のネタは「高校野球」たったのだ。

実際に当時読んでいた雑誌を見ると、特定の選手にいくつか下の写真のようなマークがつけてある。

おそらく僕は当時このマークがついていた選手で自慰行為をしていたのだろう。

マークがついている選手たちには共通点がある

それは「大事な場面で結果を残せていない」ということだ。

マークのついた試合ということではないが、マークのついた選手はみな後の試合で勝敗にかかわる場面で打てなかったり、エラーをしたりしている。

当時の僕も子ども心ながらに高校野球の選手たちはとてつもない努力を重ねているということを理解していた。

夏の大会という集大成のために、途方もない練習を重ねたのにも関わらず、結果を残すことができない。

僕はそんな「努力が報われない姿」に興奮し、その感情の高ぶりを性的な興奮と混同してしまっていたのだと思う。

時が経つと共にいつの間にか高校野球にそうした興奮を覚えることは無くなったが、

現在のセックスに関心を持てないという僕の性癖を考えると、いまだにこの「報われない努力」に興奮するという根幹は変わっていないと思う。

僕の脳内はいまだに「報われない努力」に対して覚えた興奮を性的興奮と誤解したままなのだ。

いうなれば 僕はおそらく人生観フェチなのだろう。

この先 僕の性癖はどのように変わっていくのか。

現段階で言えるのは「報われない努力」への過度な崇拝は変わることはないということだけだ。

PS ビリビリ動画(ニコニコ動画の中国版)のチャンネルを作りました。良かったら観て下さいhttps://www.bilibili.com/video/av64564824

私は「山」を決して許さない

本日8月11日は「山の日」である。

「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨のもと2016年から新設された祝日だ。

私はこの「山の日」が大嫌いだ。おそらく日本の祝日の中で最も嫌いな祝日とも言えるだろう。

なぜ私が「山の日」が嫌いなのか

それは私の本名を見て頂ければすぐに分かると思う。

「海谷 陸斗 (かいやりくと)」

海、谷、陸は言うまでもないが、斗の由来もまた「北斗七星」いわば「空」からとっている。

つまり私は名前を通じて、これらの海、谷、陸、空といった地球の構成要素をほぼ支配しているのだ。

現在の地球の支配者は海谷陸斗であるといっても過言ではないだろう。

巷では影の支配者としてフリーメイソンの名前が上がることが多いが、

そんなフリーメイソンなど私フリーカイヤンからすれば取るに足りない烏合の衆に過ぎないのだ。

しかしこうした私の支配から逃れのうのうと生き永らえてる奴がいる。

そう「山」だ。

奴はフリーカイヤンの支配を逃れるだけでなく、雪崩や絶壁といった過酷環境イキリで多くの人々を死に至らしめ、

挙げ句の果てには自らの恩恵に感謝するようにと「山の日」まで設立させたのだ。

フリーカイヤンの支配を受けずに暴れ回る「山」の蛮行は本当に目に余る。

私は以前こうした蛮行を止めるために、何度も「山」に対して支配下に入るよう強く働きかけてきた。

しかし奴は私の支配下に入ることを条件に「海谷 陸斗山」への改名を求めてきたのだ。

「特別な事情がある場合に限り名の変更を認める」という戸籍法第百七条二を利用した「山」らしい姑息な対応だ。

どうやら私の「名前に山を入れることにより山を支配下に置きたい」という改名理由が正当と判断される訳かないとたかをくくってるのだろう。

山に関係した災害が発生するのは「山」がフリーカイヤンの支配下に入っていないことに起因するのは一目瞭然なのに、私の改名要求が通らないはずがない。

それになんだこの「海谷 陸斗山」というダサイ改名案は。

改名するなら「海谷 山陸斗」だろう。

バカの一つ覚えのように地名+山でしか名前がつけられない山界隈のセンスの無さを象徴している。

とにもかくにも私の支配から逃れ、恥も知らず暴れ回る「山」を私は決して許すことはできない。

いつか必ず奴を支配下に入れ、「海谷 山陸斗」を実現してみせる

僕はワセダに失望した

先日 早稲田大学の学部事務所からこんなメールが届いた。

呼び出し。

どうやら先日僕たちが大学内で許可無くプールをしたことが原因のようだった。

僕の呼び出しに先立って一緒にプールを企画を行った教育学部のこんりんの呼び出しが昨日行われた。

彼の語った呼び出し内容は衝撃的だった。

彼の話によると呼び出しは彼と教育学部の教務主任、書記の3人で行われたそうだ。

こんりんはまず教務主任に今回のプール企画が早稲田から1トン増やす会の活動の一環であることを説明し、プール企画に至るまでの活動を説明した。

すると教務主任はこう語ったそうだ。

「くだらない」「お前らの活動は無意味だ」

ちゃんこの炊き出しも武蔵野アブラ學会とのコラボもそして今回のプール企画も

教務主任は僕らの活動を全て「無意味、くだらない」ものとして切り捨てたのだ。

早稲田大学のホームページにはこんな言葉が記載されている。

「多様性重視と個性の尊重は早稲田の伝統」

学生の活動を否定しておいて

なにが多様性重視だ なにが個性の尊重だ。

今回の問題の争点は僕たちが許可をとらずにプールを行ったことであって、企画内容そのものを否定される筋合いはどこにもないはずだ。

もし仮に僕たちがプールの際に道行く人を片っ端からプールに突き飛ばしたりといった他人へ迷惑をかける行為や法に触れる行為を行っていたならまだしも、

僕たちは今回そのような行動はしていない。

確かに今回は大学に許可を取らなかった点は僕たちの落ち度であり、反省すべき点である。

しかし僕たちはこれまで「他人に迷惑をかけない」という理念のもと活動を行ってきた。

実際に今回の一連の企画において僕たちの活動が社会に大きな損害を与えているなどといった主張はない。

にもかかわらず、教務主任は僕たちの活動を「無意味でくだらない」と完全に否定した。

僕は早稲田から1トン増やす会を立ち上げてからの2週間本当に楽しかった。

どんな企画がおもしろいか友達と話し合ったり、実際に企画に集まってくれた人たちが笑っているのを見たりする時間は本当に楽しい瞬間だったし、

自分の好きなことは「人を楽しませること」だということを改めて確認した2週間でもあった。

そんな僕たちが充実した時間を過ごした2週間のどこが「無意味でくだらない」というのか。

さらに教務主任はこんりんにこんな言葉もかけたという

「こんなくだらないことをしてないでもっと大学生らしく行動しなさい」

大学生らしさってなんなんだよ。

僕はいま「人に迷惑をかけない」といった最低限のルールのもと、自分が「楽しい」と思ったことをしている。

大学内で「楽しい」と思ったことをやって学生生活を送っている学生のどこが大学生らしくないというのか。

学生の楽しみを否定して大学生らしさを奪っているのは誰なのか。

自分たちの価値観で勝手に学生の活動を「無意味」と否定するのが早稲田大学が伝統と主張する「個性の尊重」なのか。

大学職員たちの凝り固まった価値観でしか学生の行動を判断できないなら「多様性重視」 だとか「個性の尊重」だなんて言葉を掲げるのはやめろ。

とにかく僕は今回の教育学部の教務主任の対応には深く失望した。

1週間後には文学部の教務主任からの僕への呼び出しが行われる。

今回と同じような対応が文学部で行われないことを心から願っている