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すね毛と共に生きてゆく

すね毛

この世に生を受けて23年、僕はこのたった数センチの黒い物体に苦しみ続けてきた。

話は小学校時代に遡る。

父親の剛毛遺伝子をふんだんに受けついだ僕は学年が上がるにつれてその突出した毛量で他の児童たちを圧倒するようになっていった。

友人たちの足と比べて漆黒に染まった我が足を見て落胆することはあったものも、当時はまだまだ無邪気な小学生。

すね毛いじりもせいぜいたまに毛を抜かれる程度で、露骨な悪意を感じるものは少なく、僕が抱いた苦しみもわずかなものであった。

そんな僕の小さな欠点意識を明確なコンプレックスと変えた場所があった。

そう かの悪名高き横浜市立岡野中学校だ。

中学校ではバスケットボール部に入部した。

バスケでは練習着が短パンになるため、僕の剛毛っぷりがより強調されやすい状態となってしまった。

そんな僕の剛毛を人の粗探しに命をかけるただ歳が1つ上であるだけな奴らが見逃すはずはなかった。

「先輩命令」

彼らはこの文句を馬鹿の1つ覚えのごとく乱用し、僕に対してテーピングやガムテープを足に貼り付けて剥がす「テープすね芸」を強要した。

ことあるごとに激痛と嘲笑に苛まれた僕はすっかり自らのすね毛に対してコンプレックスを抱くようになってしまった。

あれから何年もの月日がたった。

公立中学校という「魔界」を抜けて以降、「テープすね芸」を披露することはなくなった。

しかし僕のすね毛は抜けること無く増え続け、一度植え付けられたコンプレックスも抜けることはなかった。

バスケサークルでの練習やyoutubeのすね毛脱毛広告を見るたびに自らの剛毛が僕の脳裏によぎった。

もちろんこれまですね毛を無くそうとしたことは何度もある。

髭剃りに除毛クリーム、ブラジリアンワックス。

どの方法も僕の剛毛が持つ雑草魂に勝つことはできず、生えては処理、生えては処理を繰り返すうちに僕の肌と心は荒れ果て、除毛断念を余儀なくされた。

いつしか僕は男某場で言われた「毛は男らしさ」という言葉を妄信し、コンプレックスを覆い隠そうとしていた。

そんな僕に転機をもたらしたのは家で唯一の話し相手である妹だった。

例のごとく海谷家の宿命であるすね毛を継承してしまった妹は、これまた例のごとく公立中学校に通い始めてからすね毛を気にするようになり、脱毛を始めた。

脱毛に成功して以来、ことあるごとに妹は僕の足を見て「やばい」「こうはなりたくない」と指摘するようになった。

当初はいつもの「すね毛は男らしさ」というバカの1つ覚えで対処していたが、何度も指摘されるにつれて僕の覆いが少しずつ取れていくような感覚があった。

そしていつものようにgorogoroを満喫していたある日、ふと僕はすね毛に関心を抱き、検索エンジンを開いた。

「すね毛 処理 メンズ」

久しぶりにすね毛処理界隈を覗いてみると、界隈は進化を遂げ、様々な処理方法が発達していることが分かった。

その中でもある画期的な方法が僕の目に止まった。

「脱色」

僕はこれまで毛を無くすことに囚われ、生えては処理、生えては処理を繰り返すうちに肌と心が負けるという流れに苦しんでいた。

男なら誰でもすね毛は生えている。

何もすね毛を無くす必要は無いのだ。

異常な剛毛であることが見透かされなければ良いのである。

新たな可能性の登場に心踊った僕はジャングルに向かい、脱色剤を購入した。

脱は急げ 剛毛から中毛へ スピード! スピード!

長年の苦しみを解放する瞬間がついに訪れる

感情の高ぶりが抑えきれない僕は脱色剤が到着した夜、すぐさま脱色への扉を開いた。

すね毛たちも心なしか脱色を待ち望んでいるようだ。

まずは説明書の通りに付属のカップの容量に合わせて液体を混ぜ合わせ脱色液を錬成した。

こいつが僕を苦しみから解放するのか。ただの白い液体なはずなのに何だかとても頼もしい存在に覚えた。

液を作って安心したのも束の間、すぐさま新たな問題が発生した。

完全な液不足

写真で勘づいた方もいたかもしれないが、あのカップ程度の液量で僕の剛毛を脱色するなど到底不可能だ。

何が説明書だ 剛毛なめんな クソくらえ 

説明書の剛毛想定力の低さに遺憾の意を覚えた僕は残っていた液を全てカップにぶちこみ、剛毛仕様の脱色剤を完成させた。

後は塗るだけ。

僕はあの頃の嘲笑の日々を頭に浮かべつつ、もう一度新たなすね毛との関係性を求め、一心不乱に液を足に塗りたくった。

悪黒に染まったすね毛どもよ 今こそ正義の白を手にするにあらん。

僕は新たな脱色毛を手にし、二度と剛毛呼ばわりの屈辱を受けない はずだった‥

そこに待っていたのはあまりにも微妙な結果であった

脱色後の足がこちらである。

微妙だ 限り無く失敗に近い微妙である

確かによく見ると最初の写真に比べて薄くなっているような気もする。

しかし僕が求めていたのはこんな微妙な結果ではない。

求めていたのはこれまでの悪夢を払拭するような爽やかな白だ。

徒労感、虚しさ、無念さ 様々な感情が代わる代わる僕を襲った。

僕は母と妹に批判を受けながら50分間、風呂場にこもった。

手に入れたのは茶髪のすね毛。

もうやめよう。僕はこれからもすね毛と向き合って生きてゆくしかないんだ。

「トウマくん 毛が大好きなお客さんもいるから絶対剃っちゃダメだよ」

ふと彼の言葉が脳裏をよぎった。

2年の月日で変わったのと変わらないもの

6月某日 都内近郊某大学説明会にて

「困っている学生を助けることができるのが大学職員の一番の魅力です。」

彼は親の敵のごとく忌避していたスーツを羽織り、淀みなく言い切った。

2019年 夏

僕たちは尖りに尖っていた。

「早稲田から1トン増やす会」を作り、ちゃんこ配布企画、ハチミツパン配布企画、そしてプール企画、ありとあらゆる企画を実行した。

新たな企画を生み出し続ける楽しさは何ものにも変えがたい経験であったし、学生生活を振り返った時、真っ先に思い浮かぶ場面の1つであろう。

しかしそんな僕たちのささやかな楽しさに水を差し続けていた存在がいた。

そう 他でもない大学職員だ。

バナナ配布企画では職員室呼び出し、ちゃんこ配布企画では警備員を派遣し撤収強要、極めつけはプール企画での人格否定。 

彼らはことあるごとに僕たちの前に現れ、楽しさを奪っていった。

「大学職員はつまらん奴ら」「あんな風になったら終わりだ」

僕たちはそんな恨み口を言っては大学職員に妨害された憎しみを晴らしていた。 

「あいつらがいなければ」そんな感情を抱いたことも一度や二度ではなかった。

当時の僕たちにとって大学職員は僕たちを困らせる「天敵」であったのだ。

それからいくぶん月日が経った。

どのような心境の変化があったか定かではないが彼は大学職員になった。

そしてこの瞬間 彼は未来の「天敵候補」たちに向けて大学職員の魅力を語っている。

あの時、恨み、憎しみ、蔑んだ「大学職員」に対して。

面白い。最高に意味不明だ。

彼の2年がかりの壮大なギャグは僕の笑いのツボを破壊するに十分なものであった。

いま目の前で「大学職員」の魅力を話す彼の姿と2年前「天敵」に向けて憎悪を向ける彼の姿が交互に現れる。

ダメだ。面白すぎる。

いまこの世界の誰よりも意味不明で面白いのは君だ。

#絶対に笑ってはいけない説明会

僕は彼のあまりの変化に対して心の中で大いに爆笑した。

ただその一方で 

ほんの少しだけ「さみしさ」を感じた。

天敵への憎しみを共有し、「無意味でくだらない」ことへ全力投球したあの時の彼といまの彼は違う。

1人の男として社会で生き抜くために過去の想いには触れず、大学職員の仕事を楽しんでいる。

いや彼だけじゃない。僕もだ。

以前の僕だったら天敵の魅力を雄弁に語る彼の姿に面白さを感じることはないだろう。

「そんなんはつまんねーよ」と一刀両断して、「AV出ろよ」とか面白いことの実現を強要しているだろう。

でもいまの僕は彼の変わり身っぷりに面白さを感じ、ゲラゲラ笑っている。

2年という短い月日の中で僕たちは変わった。

もう互いに社会に一泡吹かせようと結束することは無いかもしれない。

ただ僕たちの関係性は今も続いている。

今後も互いに変わり続けていくだろう。

それでも関係性だけは切れないなら良いんじゃないかと僕は思っている。

スーパーパンプマックスの使い方を考える その2

前回に引き続きスーパーパンプマックスの効能について考えていきたいと思う。

前回の即興パンプ体験では以下のことが分かった。

  • 心臓のパンプスピード向上
  • 行動力向上
  • パワー向上
  • 思考力の低下

この特徴を考慮した時、スーパーパンプマックスが力を発揮する機会とは何か。

思考力低下の副作用ゆえに知能労働は向かない。

知能がダメならパワーだ。

知恵よりパワー。パワーは全てを解決する。

やはりスーパーパンプマックスはパワーを発揮する分野で力を授けてくれるはずだ。

しかし僕はあいにくトレーニーでないので、日常でパワーを求められる機会はない。

いや 違う。僕は自らのパワー不足を言い訳にパワーを伴う活動を避けているだけじゃないのか。

自分のパワー不足からパワー労働に逃げているだけだろ。

パワーがあったらしたいことは必ずあるんだ。

スーパーパンプマックスがある今ならできる。何でもできるんだ。

僕はパワーがあったらやりたいこと。

僕の頭に真っ先に浮かんだものがあった。

瓦割り

僕は幼少期からテレビや映画で登場する瓦割りに対して密かな憧れを抱いていた。

最強にパンプした屈強な人々が己の拳のみで頑丈な瓦板を粉砕する。

その人間は非力であるという常識を根底から覆す爽快な破壊っぷりは僕の心を揺さぶった。

瓦を割りたい。

最強にパンプした僕ならできるはずだ。

パワーがあれば夢は叶う。

こうして僕は瓦割りへの挑戦を決意した。

瓦割りとは言ってもまずどこに瓦を割れる場所があるのか。

調査を進めていくとなんと浅草に瓦割りを体験できる場所があることが分かった。

世の中はやはりパワー優先だ。

パワー系たちを満たすニーズは必ずある。

僕は予約を取ろうとwebサイトを訪問したが、当日申し込みのみで、予約は受け付けていないようだった。

流石パワー系客層を持っているだけある。パワー系にとって瓦は割りたい時に割るもの。予約という概念が通用しないのだろう。

僕は予約を諦め、一路浅草へ向かうことにした。

浅草駅から店までは約10分。

僕はスーパーパンプマックスの効果が現れる時間を考え、新橋駅でパンプを注入した。

新卒駅から浅草駅まで約10分

浅草駅に到着するころには既に僕のパンプは始まっていた。

まんぼうなんてどこ吹く風、浅草周辺は和風かぶれの小日本人がわんさか沸いていた。

「全員ぶっ飛ばす」

パンプが止まらない。

僕は通りかかった小日本人たちの頭を片っ端からカチ割りたい気持ちでいっぱいだった。

暴れるパンプを必死に抑えながら歩くこと10分、ようやく瓦割り店が現れた。

やっと瓦が割れる。やっぱりカチ割るのは頭ではなく瓦だ。

僕の割りベーションは最高潮に達していた。

しかし

そこに待ち受けていたのは厳しい現実だった。

はいぐ~「瓦割りがしたいです。」

店員 「あ~ 今からだと一時間半待ちですね」

一時間半待ち!?

今日ほどストレス社会の現実を思い知った日はないだろう。

世の中には瓦を割らなければ生きてゆけないほど鬱屈としている人々が大勢いるのだ。

僕が単に観光で浅草に来ているのなら、一時間半なんてどうってことない。

しかし今日はパンプを入れているのだ。

パンプの効果時間には限りがある。

そう パンプは待ってくれないんだ。

僕は泣く泣く瓦割りを諦めた。

店を出た僕は失意のまま浅草の街を歩いた。

気持ちは落ち込んでいる。でも体は動きたがっている。

僕の中のパンプが解放してくれと叫んでいる。

#パンプが叫びたがってるんだ。

そんな心体不一致な僕の目の前にある思い入れの深い施設が現れた。

バッティングセンター

僕が以前 反射神経向上を目標に通った思い出の施設だ

当日は140kmの豪速球に手も足も出なかった。

でも最強にパンプした今なら…

パンプの結果を試すにはうってつけの施設だ。

打ってやる 140km 打ってやる

僕の心が再びパンプを始めた。

心と体の一致を果たした僕はギラギラとした雰囲気を纏わせ、バッティングセンターに入った。

しかし

そこで待っていたのはまたしても残酷な現実だった。

混雑 圧倒的混雑。

打撃成績をパンプしたい少年たちが黙々と鍛練を重ねる場であるはずのバッティングセンターは老脈男女が入り乱れる娯楽施設へと姿を変えていた。

これでは僕の打席がいつ回ってくるのか想像もつかない。

何度でも言おう。

パンプは待ってくれないんだ。

僕は再び失意のままバッティングセンターを後にしようとした。

だがその時 僕の視線の先にある娯楽が登場した。

「ザ・握力」

中央にあるレバーを力いっぱい握るだけという思考力を問わない簡素な構造。己の肉体をこれでもかと見せつけるパンプ感あるキャラクター。

僕のパンプ効果を測るにはぴったりの存在だと感じた。

そうだ。力を測るうえで何もバッティングである必要はない。

すっかりこの「ザ・握力」に魅了された僕はコインを入れ、画面の指示通り力いっぱいレバーを握った。

見ろ これが僕のパンプだ!!

47kg

あまりにも微妙な結果に僕はしばし唖然とした。

そうか スーパーパンプマックスは普段から鍛練を重ねる者にパワーを授けてくれるのであって、普段からゴロゴロ生活をしている者を一瞬で強くするサプリメントではないのだ。

ゴロゴロ民が飲んだところでせいぜい強くなった気がするだけだ。

ただその一方でスーパーパンプマックスがなかったとしたら、瓦割りに興味を持つこともなかったし、浅草に行くこともなかった。

そして何よりこの記事を書くこともなかっただろう。

僕はスーパーパンプマックスの真の効能はここにあると考える。

自分が普段しないことに挑戦する勇気をくれる。

これこそがスーパーパンプマックスの真の効能なのだ。

スーパーパンプマックス。ぜひ一度お試しあれ。

~はいぐ~の小さな野望~ 日本一冷たい水風呂に入りたい

――サウナはいつだって人生の大切なことを僕たちに教えてくれる――

僕は以前本ブログにてサウナ素人の意地とプライドをかけ、サウナの魅力を熱く語った

この記事以降も冷めることなく、世界湯サウナほどの温度を維持した僕のサウナ熱は、僕を地元サウナ開拓へ走らせた。

街銭湯中の街銭湯「松の湯」から最新の設備がととのった「かるまる」まで

この世には開拓がいのあるサウナが至るところに溢れている。

#アナル開拓よりサウナ開拓

そんな大サウナ時代真っ只中の我が国日本に恍惚と輝き続けるサウナがある。

「ウェルビー栄」

日本のみならず、世界各地のサウナファンが愛してやまない「サウナの聖地」。

特に「日本一冷たい」と称される水風呂は関東一冷たい「かるまる」の水風呂をも下回る3℃。

サウナ開拓を志す者として必ず開拓せねばならないサウナに違いない。

このサウナに行かずしてサウナ開拓趣味を名乗るのは、指一本しか入らないのにアナル開拓趣味を名乗るようなものだ。

僕は「ウェルビー栄」開拓を決めた。

大寒波吹き荒れる12月某日

僕はあえて睡眠の取れないであろう夜行バスに乗り込み「ウェルビー栄」のある名古屋へ向かった。

移動自粛要請なんてどこ吹く風。社内は満員御礼。老若男女で溢れかえっていた。

さしたる観光地もない名古屋になぜこれほどまでの人々が苦しい思いをして夜行バスに乗り込むのか。

夜行バスの到着予定は朝6:00。この時間では名古屋自慢のグルメショップたちも目覚めていない。

そうなると答えは一つ 「ウェルビー栄」だ。

ここの乗客たちはみな早朝から空いている「ウェルビー栄」を堪能し、夜行バスでの不眠を補う快眠を果たすのだろう。

恐るべしサウナ熱。

やはり大サウナ時代到来は間違いではなかった。

夜行バスに揺られること約6時間。

僕たちを載せたバスは予定通り、名古屋駅近郊に到着した。

極寒の早朝名古屋に降ろされた乗客たちは熱を求め、ものの数分で「ウェルビー栄」方面へと消えていった。

サウナを求める人々のあまりのスピードについていけず、一人バス停に取り残されてしまった僕も一流サウナ通のアラタと何とか合流し、「ウェルビー栄」への歩みを踏み始めた。

三流名古屋メシ「なか卯」での休憩も挟んで歩くこと30分、聖地「ウェルビー栄」が姿を表した。

外の写真を撮るのを忘れたのでTシャツでご容赦下さい。

ビジネスホテル風の3階建てビル。

外観だけでいえば「聖地」には程遠い。

しかしサウナは見た目だけで決まらないことは小綺麗な外観にも関わらず、ハッテン場に成り下がった某マー湯が教えてくれた。

きっとこの「ウェルビー栄」には僕たちを驚かせてくれる「聖地」があるのだろう。

僕たちは期待に胸を膨らませて、「ウェルビー栄」に入店した。

受付を済ませ、すぐさま脱衣場へ。

男性専用にも関わらず、頻繁に脱衣場を往復する若女性店員にイチモツを見られつつ、足早に着替えを終え、浴場へ向かった。

浴場の広さは松の湯約3個ぶんほどとそれほど広くはなかったが、内湯1つにサウナ2つ、水風呂3つというこだわりのインテリア。

流石は「聖地」。ここはあくまでサウナを楽しむための場所だという主張がビンビンに伝わってくる。

そしてお目当ての「日本一冷たい水風呂」。

浴場奥に佇む2重扉の先に厳重に閉ざされ、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。

「これからここに入るのか」

僕は先ほどまでの期待が不安に変わるのを感じつつ、穢れた身体をシャワーで流した。

落ち着け。どんなサウナであってもやることは変わらない。

水風呂に入る前にはまず体を限界まで火照らせる。

「ウェルビー栄」には高温サウナと森のサウナという二種類のサウナがあった。

一流サウナ通アラタの「森はぬるい」というビックマウスもあり、僕たちは95℃のサウナに火照ることになった。

熱い!

冷静に考えればサウナ開拓にはまっていたのは主に11月。最後にサウナに入ったのも11月末、準備不足は自明の理であった。

僕はものの6分ほどで限界に達し、まだ火照りたげなアラタと共にサウナから出た。

”どんなサウナであってもやることは変わらない”

サウナで火照った後に待っているイベントはただ1つだ。

僕たちは高揚と不安に苛まれながらゆっくりと歩みを進めた。

待ち構える異質な2重扉。

サウナでの実力を証明し、自信ありげに先頭に立ったアラタが扉を開けていく。

寒い! 

アラタが2枚目の扉を開けた瞬間、凄まじい冷気が僕たちを襲った。

一説にはマグロ冷凍庫と同じ冷凍設備を使用しているらしいというこの水風呂。

流石は「日本一」期待を裏切らない。

あまりの冷気に畏れをなしたアラタは先ほどまでの自信が嘘のように、後ろへと下がった。

消去方的に先頭に躍り出た僕はこのまま戻る訳にもいかず、水風呂に足を踏み入れた。

その瞬間待っていたのは寒さでも、冷たさでもない。

痛みだ。

体の悲鳴がこもった痛み。

ルーティンを果たすために、痛みをこらえ肩まで水に浸かるとその痛みは全身に広がった。

身の危険を感じた僕たちは時間を数える間もなく、凍った手すりをつかみ、我先にと水風呂から飛び出した。

なんだあの水風呂は

サウナでじっくり限界まで火照らせた僕の体はたった数秒の水風呂で「冷」へと変わった。

恐るべし「ウェルビー栄」

僕たちの高い期待を大きく上回った。

しかし本当に恐ろしいのは水風呂だけではなかった。

どんなサウナであってもやることは変わらない。それがたとえ日本一の水風呂を前にしていても。

僕たちは先ほどあれだけ恐ろしい体験をしたのにも関わらず、すぐさま2セット目のサウナへと向かった。

水風呂がどれだけ冷たかろうが、1セットで終わることはできない。

真に恐ろしきサウナ開拓者の性だ。

その後も僕たちはサウナ→水風呂のルーティンを繰り返した。

次第にサウナの熱さには僕も慣れ、8分~10分の間耐久できるようになった。

一方で水風呂の痛みには最後まで慣れることができず、せいぜい10秒浸かるのが限界点であった。

この10分じっくり火照り、10秒一瞬で冷えるというルーティン。

どこかで経験したことがあるのではないか。

その「どこか」が何なのか。サウナ耐久中の回らない僕の脳ミソは常々この疑問に振り回されていた。

今ならはっきり言える。

このルーティンは人生そのものだ。

「積み上げるのは難しい、崩れるのは一瞬」

温かい関係を作るのには時間がかかるが、温かい関係は些細なことで一瞬にして冷え込む。

しかし「ウェルビー栄」が真にサウナと水風呂を通じて伝えたいことはこれだけではない。

冷え込んだ関係も時間をかけて温めれば最後に必ずととのう。

サウナはいつだって僕たちに人生で大切なことを教えてくれる。

「ウェルビー栄」はまさに「聖地」にふさわしいサウナであった。


1匹のアジ

「日本は貧しくなった」

1億総貧困時代と揶揄される現代日本社会でしばしば取り上げられるようになったこの言葉。

1人あたりのGDPが下がったから貧しくなっただとか理由は探せば山ほど出てくる。

生産力低下=貧しくなった

本当にそうなのか

僕はこの「日本は貧しくなった説」は間違っていると思う。

なぜ間違っているのか

百聞は一見に如かず。

まずは都内某所で撮影されたこの写真を見て頂きたい。

アジだ。

道路の真ん中に理路整然と置かれた1匹のアジ。

なぜ?  どこから? 

疑問は次々と沸いてくる。

ただ一つ言えるのは一匹のアジが放置されているという異様な光景が僕の目の前に広がっているということだ。

僕は配達中のウーバー案件も忘れ、しばらくこのアジを観察した。

飲食店の仕入れ中にトラックから落ちたのだろうか。はたまた誰かが猫にでもエサをあげようと設置したのか。

考えに考えても結論は出ない。むしろ新たに生まれた疑問が僕を襲った。

なぜ僕はこのアジを眺めているのか

この世に鑑賞目的でアジを飼っている者は恐らくいない。

アジは間違いなく「食」の対象であり、鑑賞の対象ではないはずだ。

しかし僕を含めた街の人々はこのアジに奇妙な視線を浮かべるばかりだ。

このアジを拾おうとしたり、ましてや食べ始める者など一人もいない。

これがもし今日を生き抜くための食糧を確保するのに苦心する国であったらどうだろうか。 

食に飢え血走った目で落ちたアジに向かって我先にと飛び込んでいるだろう。

アジの写真を撮ろうとした僕は貴重な食糧をみすみす逃した愚人として激しい罵倒を受けるだろう。

しかし現在日本という国ではそのような状況にはならない。

道端に落ちた奇妙なアジに不安を感じられる心と生活の余裕がある。

僕たちは豊かだ。

道端に落ちたアジを食べなくても、居酒屋で紙切れを渡せば美味しいアジフライが食べられる。

本当に日本が貧しくなった時、僕たちに「貧しくなった」と言っている余裕はない。

ただ目の前のアジに全力で飛び込むことしかできないのだ。

万物は反射神経である 2

真に良いアイデアは、
ほとんどの人にとってひどいものに
見えるだろう。
そうでなければ誰かが既にやっている

ポール・グラハム

TOEICに通じる反射神経を鍛える上で多くの人々が思いつくのはやはり単語暗記であろう。

そんなことは気の緩みきった試験前の僕ですら容易に思いついており、実際に単語帳を作って何度も復習をしていた。

結果はどうだ?

基本に忠実な勉強法では反射神経を高めるには至らず、15問の空白を産み出した。

誰もが思いつくような方法ではダメだ。

「英語への反射神経」に囚われているから英語に関係するアイデアしか浮かばないんだ。

僕は一旦’英語’という概念から離れ、解決策を模索した。

反射神経を高めるためには?

反射神経を必要とするものは?

反射神経とは?

一通り考え抜いた僕の頭にあるアイデアが浮かんだ。

バッティング

そうだバッティングだ。

唐突に飛び込んでくる高速の球体に全身で反応するバッティング

これほど反射神経を鍛えるのに適した方法はないだろう。

英語とバッティング。

一見無関係に覚える二つの事柄がいま繋がった。

バッティングに強い可能性を感じた僕はすぐさま近隣のバッティングセンターを調べ、ある興味深いバッティングセンターを発見した。

「バッティングセンターブンブン」

素晴らしい名前だ。おそらくこの「ブンブン」という名称は「(英)ブン(英)ブン」という意味であり、バッティングを通じて英文読解力が上がるということを示唆しているのだろう。

やはり英語とバッティングには何か関係性がある。自らの仮説に自信を深めた僕はすぐさま「バッティングセンターブンブン」に向かった。

東急東横線菊名駅から徒歩13分。「バッティングセンターブンブン」は閑静な住宅街のど真ん中に堂々と鎮座している。

中に入ると既に英語の成績に困っていそうな野球少年たちが黙々とバットを振っていた。

彼らも英語の成績向上を願ってこのバッティングセンターに通っているのだろう。

彼らの真面目な姿に刺激を受けた僕は早速ゲージに立ち、バッティングを開始した。

当たらない。

100kmそこらの棒玉に僕のバットはことごとく空を切った。

辺りを見渡せば周りの少年たちは次々と快音を鳴らしている。

すごい。彼らはみなTOEICスコア900越え揃いに違いない。

こうして周りに感嘆しつつも簡単に空振りを重ねているとあっという間に1ゲームが終了した。

やばい。これでは反射神経のトレーニングどころではない。

100kmのボールにすら反応できない男が1000文字以上の英語に反応できるはずがない。

僕はどうすればボールに反応できるか考えた。

ふと昔観ていた2chの野球応援スレッドに「坂本勇人選手のフォームが打ちやすい」という書き込みがあったのを思い出した。

つい先日2000本安打を達成した坂本選手のフォームなら、1000文字、いや2000文字の英文にも反応できる反射神経を得られるに違いない。

僕は藁にもすがる想いで坂本選手のフォームを確認し、頭に叩き込んだ。

そして再度ゲージに立ち、彼のフォームの代名詞である高く足を上げてボールを待った。

カキーン!

これまでの不振が嘘のように鋭い打球が左後方へ飛んでいった。

打てる。打てるんだ。

自信を獲得した僕はその後も強い打球を連発した。

一通り打ち終えた僕は100kmゲージの隣に140kmゲージがあるのに気づいた。

僕は迷った。

このまま気持ち良く打つのであれば100kmだろう。

いや違う。

今日はストレス発散のために来ているのではない。反射神経強化のために来ているのだ。

140kmすら反応できないようでは、TOEIC9割など夢のまた夢であろう。

#打てっこないを打たなくちゃ

坂本打法への自信と未知なる140kmへの恐怖。

二つの相反する感情を抱え、僕は打席に入った。


速い 速すぎる。

僕が大きく上げた足が地面に着く間もなく140kmの火の玉ストレートが突き刺さった。

テレビであれだけ遅く見える140kmがこんなにも速いとは。 

この速さの玉をいとも簡単に打ち砕くプロ野球選手の反射神経には感服せざる負えない。

その後も僕はさっきまでの快音が嘘のように空振りを連発した。

僕は自らの反射神経不足から足を大きくあげる坂本打法への限界を感じ、よりタイミングのとりやすいすり足の元阪神マートン打法に切り替えた。

マートン打法に切り替えたことにより、超降り遅れが減り、バットにかするようになった。

しかし素人のすり足打法は実質ただバットを振り下ろしているだけに過ぎない。パワーを失った僕のスイングはことごとく140kmの球威に負け、バックネットに次々とボールが溜まっていった。

ファールチップと空振りを重ねること数十球。

ついにその瞬間はやってきた。

例のごとくマートン打法でボールを待つ僕、これまた例のごとく無慈悲に白球を投じるマシン。

僕は運動不足からなる腰の痛みにも耐え、必死にバットを降った。

ゴツン

鈍い金属音と共に宙に舞った白球は、僕が打球の行方を追う間も与えず、1メートル前に力なく落ちた。

手元を見るとバットの柄の部分に白い跡がついていた。

完敗だった。

僕の反射神経は所詮100kmレベルでしかないのだ。

この程度の反射神経では15問残しも無理はない。

前述した元阪神マートン選手は圧倒的な反射神経でプロ野球安打記録を達成し高額な年俸を得るだけでなく、TOEICスコア900以上を記録可能な高い英語力も獲得していた。

優れた反射神経を獲得することはバッティングだけでなく、英語力向上、収入増加にもつながるのだ。

これらの例からもいかに人生において反射神経が重要であるかよくわかるだろう。

僕の反射神経はまだこうした一流反射神経者に遠く及ばない。

世界の全てを獲得するために。

僕は今日もバットを振り続ける。

万物は反射神経である 1

万物は反射神経である。

これは2020年11月、僕が出した結論の一つだ。

なぜ反射神経なのか。

これから綴る内容を読めばあなたも理解できるはずだ。

僕は先日TOEICを受けた。

就活に使えそーとか英語力測りたーとかいう安直な理由からだ。

もちろん勉強はしていたが、留学後のワンチャンスに掛けていたHSKに比べて気の緩みは明らかだった。

こうした緩みは試験当日にしっかりと表れた。

僕は試験の必須品とも言える時計を忘れてしまったのだ。

時計の無い試験会場と豪勢な時計をテーブルに誇示する受験者たちの姿を目の当たりにし、一瞬焦りを覚えたが、「10分前になったら試験官が教えてくれるだろう」という安易な想定に身を委ねてしまい、その時はあまり深く考えなかった。

若干の不安を覚えつつ試験は始まった。

人間とは不思議なもので不安があろうが、気が緩もうが、試験が始まった途端に忘れてしまう。

僕もその例外ではなく絶え間なく現れる英語と格闘しているうちに時計のことなどすっかり忘れてしまっていた。

そして試験も残すところあと15問。

「以外といけたんじゃね」

そんな考えがちらほらとよぎる頃だった。

‘試験を終了します。解答を止めてください’

!?

終わり!?

10分前コールは?

初老試験官の無情な宣言により試験は突然終了した。

唖然とする僕を尻目に初老試験官は手際よく試験用紙を回収していった。

僕が最初に覚えた感情は怒りだった。

試験終了10分前を告げない初老試験官への怒り、腕時計を忘れた自分への怒り。時計を置かない試験会場への怒り。

しかし僕はこれらの怒りが全て的外れであることにすぐに気がついた。

何が一番悪い?

全ては僕の英語力不足だ。

全ては僕の読解速度の遅さだ。

試験官、試験会場、腕時計 仮に全部理想であっても15問落とす事実は変わりないのだ。 

ではなぜ長文読解が遅いのか。

長文読解の肝は大量の英文と英単語に対して素早く反応して理解することである。

いわば英語への反射神経力は読解力に直結する。

僕にはこの反射神経が圧倒的に足りていなかった。

反射神経を高めなければ、時間内に全ての問題を解くことはできない。

僕の反射神経強化訓練がここに始まった。

続く

サウナ道~男たちの戦場~

サウナ そこは男の戦場。

数々の修羅場をくぐり抜けてきた

屈強な男たちが己の限界に挑戦する…


僕は生まれて22年間、いまだ理解できずにいた問いがあった。

なぜ人はサウナに魅せられるのか。

近年男たちの間でサウナ活動は「サ道」「整う」といった言葉と共に流行を博している。

僕はこの流行に強い疑念を持っていた。

僕は夏場の売りセンで部屋に入った途端、エアコンを最低温度にまで設定する男たちの姿を通じて、いかに男たちが暑さを嫌っているかを知っている。

もちろんサウナは暑い。

ではなぜ暑さを異常に嫌う男たちが暑いサウナを愛好するのか。

また「整う」という言葉も僕にはいまひとつ理解の及ばない概念であった。

一説によると高温のサウナと低温の水風呂を交互に入ることで「整う」という境地に達することができるらしい。

サウナを訪れるのは脂ぎった男たちが多数を占めている。

自らの脂ぎった身体すら整えられないのになぜサウナと水風呂を往復しただけで「整う」のか。

サウナについて考えれば考えるほど謎は深まるばかりだ。

おっさんを制する者が人生を制する

今後社会の荒波をくぐり抜けていくためには、金と権力を持つ男たちのトレンドに敏感になり、友好な関係を築くことが重要だ。

男たちのトレンドを理解する一環として、サウナの良さを知る必要があるかもしれない。

百聞はサウナに如かず。

僕は実際にサウナへ足を運ぶことにした。

早速サウナの情報を調べてみると、なんと横浜市に関東一冷たい水風呂を自称するサウナがあることを発見した。

その名もヨコヤマ・ユーランド鶴見 

スーパー銭湯元年と呼ばれる平成2年にオープンしたといういかにも脂ぎった男たちが集まりそうなサウナである。

僕は行き先を定め、電車とバスを乗り継ぎサウナへ向かった。

(ちなみにヨコヤマユーランドの水風呂が9度なのに対し、池袋かるまるの水風呂は7.6度なので、関東一冷たい水風呂はデマである)

出発から約30分、目的地に到着したという表示を確認し、顔をあげるとそこには若者を拒絶するかのような昭和の香り漂うスーパー銭湯があった。

ここは間違いなく男たちの巣窟だ。

僕はすぐに受け付けを済ませ、脱衣場へと向かった。

脱衣場に若者の姿は無かった。

恐らく平均年齢は50を越えているだろう。

男たちのトレンド検証にはぴったりだ。

そんなことを考えながらあられもない姿になった僕はサウナとの戦闘の準備を整えるために、スーパー銭湯名物の温泉に浸かることにした。

温泉にはぬる湯と熱湯があったが、丁度良い湯は無かった。

温泉に浸かっている間も、僕の視線は常に数々の湯を押し退け中央に鎮座する水風呂と次々と男たちが消えていくサウナに注がれていた。

サウナには何があるのか。

好奇心から来る高揚感は温泉以上に僕の身と心を温めた。

戦闘準備を整えた僕はサウナの扉に手をかけた。

そこには僕の想像を越える光景が広がっていた。

10畳そこらのサウナに脂ぎった男たちが所狭しと座っていた。

その息を切らし、汗を垂れ流す男苦しい様子は北京ゲイサウナを彷彿とさせた。

形の違いはあれサウナで見られる光景はどこも同じなのかもしれない。

僕は唯一空いていた一番熱い釜戸前に座り、男たちを観察した。

びっしょりと汗を流しじっと俯く男、息を切らして天を見上げる男。ひたすらに時計の針を見つめ、出る時間をいまかいまかと待つ男。

実に多様な男たちの姿がそこにはあった。

彼らみな己と戦っていた。

少しでも長くこの場にとどまろうと。

しかしまだ僕には彼らが戦う理由は分からなかった。

何のために? 何が楽しい?

そんな疑問を浮かべているうちにも釜戸の熱線は容赦なく僕を照りつけた。

僕は己の限界を感じ、一旦外へ飛び出した。

「水風呂無くしてサウナ語るべからず」

サウナ前には冷に餓えた男たちを待ち構えるかの如く、青々とした自称関東一冷たい水風呂が鎮座していた。

今までの水風呂はせいぜい15度そこらだった。

9度の水風呂は明らかに未体験ゾーンだ。

僕は近くのシャワーを浴びて水風呂の前に陣取った。

正直全く入りたくなかった。

しかしどこかのウメハラが言っていた「自分が嫌なことをやらなきゃ意味がない」という言葉が僕を奮い立たせた。

そうだ自分が嫌なことをやれ。じゃなきゃ新しい発見はない。

僕は意を決して水風呂に足を踏み入れた。

ヤバい。エグい。

水風呂に入り肩までつかると、僕は全身の筋肉が一気に引き締まるのを感じた。

氷水にいきなりぶちこまれる魚はこんな気分なんだろう。

僕は実の危険を感じ、15秒を経たないうちにすぐさま飛び出し、熱を求めてサウナへ逃げた。

なんだあれは。

サウナに逃げ込んでしばらく立ってもふくらはぎの張り詰めた感覚が残っていた。

あんなのにここの男たちは入り続けているのか。

僕は彼らに尊敬と畏怖の念を覚えた。

水風呂を経たからであろうか。

僕は最初に入った時よりもあまりサウナを熱く感じず、気づいた時には最初の倍近い時間サウナに滞在していた。

僕はここである新しい感情に出会った。

達成感だ。

以前よりも長い時間サウナにいたことから、自らの耐久力向上を実感し、僕は達成感を覚えていた。

ただ座っていただけなのに、自分が成長した感覚があった。

その感覚は僕がここ最近で得られていないものであった。

なんだこれは。

その後僕は意識的にサウナと水風呂を前回よりも長く入るように心掛けた。

10秒 20秒 30秒

3分 5分 7分

時間を意識することで圧倒的に苦しさは増した。

しかし自らの目標時間をクリアした時、確かに達成感と爽快感を得ている僕がいた。

これだ。

この感覚こそが世の男たちを魅了しているんだ。

サウナに訪れる男たちは圧倒的に中年以上が多い。

彼らは生活の中で、日々自らの衰えを感じ続けている。

人生のピークを終え、自らに迫り来る老いを淡々と待つ生活は残酷極まりない。

そんな中、彼らはサウナで「耐える」という単純な行動を通じて、自らの限界を越え、成長を感じる。

彼らにとってサウナは老いを感じ続ける日々に抗い、成長を目指すことのできる数少ない場所なのである。

ここはスーパー銭湯じゃない。

スーパー戦場なんだ。

無情な老いに抗う男たちが己の限界と戦う汗と涙の戦場なんだ。

そのことに気づいた僕の男たちへの印象は完全に変わっていた。

確かに彼らはみな脂ぎった体をしているかもしれない、しかしその体の中には老いてなお成長を目指すのを止めない屈強な精神力があるのだ。

僕にはこの男たちのような屈強な精神力はまだない。

サウナは人を強くする。

サウナの底知れる可能性を知ったサ道体験だった。




正論への怒りと受容

「民度」

ここ数日この言葉は僕を大いに悩ませた。

きっかけは某フリマサイトでのこんなコメントだった。

民度? 様無し? 字の汚さ?

は?

何を言ってるんだこいつは。

まず宛先の件。

僕はこれまでフリマサイトでの発送で宛先の「様」を書き忘れたことは無い。

ただしかし、1日の発送数が多いため、書き忘れていないとも言いきれない。

たった300円の商品が入った手に取って10秒で破り捨てる封筒に「様」が書いていなかったため、憤慨し評価を下げるほど気分を害したのならもちろん謝罪する。

ただそれなら「様が書いていなかったです。気をつけて下さい」と一言メッセージを送ってくれれば済む話じゃないのか。

なぜ「字の汚さ」と「民度」という言葉が出てくるのか。

字が汚いと言えど少なくとも送った商品はお前様の所にたどり着いた。

宛先というのは郵便局員様が分かるように書くものである。

宛先の字がどうだろうと郵便局員様さえ理解できれば何の問題もないはずだ。

つまり宛先というのは郵便局員様に向かって書いているものであり、お前様に向かって書いているのではない。

よってお前様が僕様の字の良し悪しについて語る資格は元々無いはずなのだ。

にもかかわらずこいつ様は僕様の字を批判するに留まらず、「民度」という概念まで持ち出してきたのだ。

お前様はなぜ一度も会ったことのない人様の民度が文字を見ただけで分かるのか。

人様の民度にそこまで敏感なのになぜ最も民度の低いといわれる無料フリマサイト様に重鎮しているのか。

だいたい最低価格の300円の商品で不特定多数の見る評価欄に適当な根拠で人様の民度について語るお前様の民度はいかほどなのか。

僕は怒りに震えた。

なぜこんな評価を受けなければならないのか。

毎回わざわざ手書きで一生懸命宛先を書いているのに。

怒りを消す一番の方法は忘却だ。

僕は可能な限り評価欄を見るのを止め、この理不尽を忘れることに努めた。

「字の汚さも相間って民度の低さが伺えます。」

別の購入者に宛名を書く時、いきなり「半額にしろ」と詰め寄る訳のわからない値下げ要求をされた時、はたまたニュースで飲食店に次々と自粛要求の紙を貼る自粛警察の様子を見た時。

そんな何気ない瞬間にあの言葉は餌が来た時にだけ水面に現れる気味が悪い鯉の群れの如く僕の脳裏に浮かんできた。

忘れたいのに忘れられない。

なぜ僕はたった一人のフリマサイトのユーザーが発した言葉に悩まされているのか。

夜はぐっすり眠り、朝昼夜しっかり食事をとって考え続けた後、僕はあることに気づいた。

あの言葉は正しい

人が一番怒りを覚える瞬間とは何か。

それは相手の指摘が図星の時である。

冷静に考えれば僕の字はとてつもなく汚い。

僕の平均字

少なくとも僕は自分への宛名がこの字だったら汚いと感じる。

これまで一切の苦言を呈することなく僕に良い評価を与えた人々たちも僕の字に関してきれいか汚いかと問われていたら、汚いと答えるだろう。

そして正しい指摘をした人に対して、その人のコメントを個人ブログに晒し、反論しようとする僕の民度は間違いなく低い。

もしこのブログがあの人の目に留まれば、間違いなく「字は人を語る」という価値観の更なる根拠となるに違いない。

こうしてあの言葉の正しさに気づくと、これまでの苦悩が嘘のように僕の怒りはスーと消えていった。

あまりにも正論過ぎる指摘を受けた時、人は現実を受け入れることができず、論点を反らし、やみくもに怒りをぶつける。

怒りを覚えた時こそが自分を見つめ直す良い機会なのかもしれない。



マスク作りの持つパワー

マスク不足。

この言葉が世間を賑わせるようになってからどれだけの月日が経っただろうか。

街にはマスクを求め集まる人が溢れ、ネットには製造地不明の高額なマスクが溢れ、といった具合に依然としてマスク不足の現実は続いている。

森羅万象担当大臣安倍晋三氏渾身のマスク配布作戦も不良品が多く混じるなど根本的な問題解決に寄与しているとは言い難い。

そんな中、巷では今世紀最大と言えるであろうマスク作りブームが訪れている。

#手作りマスクや#マスク作りとひとたび検索をかければ、時間と自己顕示欲をもて余した人々たちによる自信の作品たちが画面を多い尽くす。

マスクが無いなら作れば良い。

石油が無いなら作れば良いといった具合で石炭から石油を作ろうとしていた戦時中を彷彿とさせるような日本の代用精神は今もなお脈々と受け継がれていたのだ。

それにしても老脈男女をこれほどまでに熱狂させるマスク作りとはいったい何なのか。

彼らは単に「マスクが無いから」という固定観念に縛られ、半強制的にマスクを作っているのか。

はたまたマスク作りに人々を興奮させる強烈な魅力が存在するのか。

家庭科の授業以来一切裁縫に触れていない僕の想像力では「マスク作り」が生み出す化学反応が何なのか全く分からなかった。

想像できないなら創造しろ。

某有名動画配信者が以前語っていたこの言葉のように、世の中には当事者にしか理解し得ない感情がある。

実際にマスクを作ってみれば、マスク作りが持つ力を理解できるかもしれない。

こうして僕はマスク作りを始めた。

マスク作りに必要な物は布、ヒモ、針、糸とそれほど多くはない。

僕はまずメルカリにて600円で購入した正体不明の白い布を裁断し三つ折りにした。

マスク作りのサイトには横57cm×縦21cmで裁断すると書いてあったが、生地の長さが縦30cmだったため、9cmという微妙な長さの生地が余ることを嫌い、縦の長さの調整を怠った。

まあ僕は顔がデカいから大丈夫だろう。

#デカさは強さ

この怠惰が後に大きな悲劇を呼ぶこととなる。

次に左端と右端を2cm折り、縫い合わせた。

文章にすればたった一秒で終わるこの工程も裁縫不足の僕にとっては永遠に感じるようなものであった。

固すぎる布

たま結び失敗による糸のすり抜け

原因不明の絡まり

針の紛失

目立つ縫い目

なぜ人々はこんなにも面倒な作業に熱中するのか。

当時の僕には全く理解することができなかった。

こうして悪戦苦闘すること1時間、ようやく両端を縫い合わせることに成功した。

あとはヒモをつけるだけ。

あいにく僕はこの時マスクのヒモを切らしていたため、使い捨てマスクのヒモを切って用いることにした。

マスクを使ってマスクを作る。

マスク不足の解消には全く寄与していないこの方法だが、ただマスクを作りたいだけの僕にとっては何の関係もない。

僕が解消したいのはマスク不足ではなく、マスク作りの持つパワーを理解できないということから端を発するストレスだ。

つまりハンドメイドマスクパワーをノットアンダースタンドなのがストレスフルなのだ。

そんな訳で僕は使い捨てマスクのヒモを左右四ヶ所に縫い合わせ、初めてのマスクを完成させた。

デカい。 明らかにデカい。

布マスクは洗う度に縮むため、大きめに作ったほうが良いという定説があるが、それを考慮してもこのマスクはデカ過ぎる。

21cmという推奨を無視したことが大きな仇となった。

仮に政府が配布していたら間違いなく暴動が起きるレベルのサイズである。

試しにこの状態で近所を歩いたところ驚異の2度見率50%超えを獲得した。

これはコスプレ時の2度見率に匹敵する高い数字である。

色も形も均一化された市販マスクでは決してなし得ない結果であろう。

僕は手作りの持つパワーが何たるかをようやく実感したような気がした。

手作りマスクは自由度が高い。

布もサイズもカラーも作り手の思うがままだ。

数多くの楽しみが消えた殺伐としたご時世では、マスク作りが気軽に自らの個性を出せる自由度の高いコンテンツとして人気を博しているのだろう。

単に生活必需品製造に留まらず、作り手の創作意欲も掻き立てる。

これこそがマスク作りの持つパワーだと僕は感じた。

PS 僕の作ったマスクは着用2日目でヒモが外れた。