アルコールにまつわるエトセトラ

   楽しい=アルコール

僕は大学に通っていてこの考えが大学生の間で蔓延していることを日々痛感している。

インスタグラムのストーリーは乾杯と酒に酔った友人の姿、日々の会話は誰々は酔ったらやばい 最近飲み過ぎ。限界大学生だわ… とても悲しい。

酔ったらやばいという言葉は裏を返せば、酒に酔ってないときは普通のつまらない人間。

つまりそのひとの酒を飲んでいた時以外全てを否定するというとんでもない悪口なのである。

酒を飲んでいるときと、そうでないときとでは人格が違うという人間がしばしば存在するが、これは立派な二重人格である。

あの人は酒を飲むと人が変わるだなんて噂してる場合じゃない。 

早急に通院を進めるべきである。

限界

僕は近年この言葉が主に酒を大量に飲んだ時に会話やSNSなどで多く登場していると感じる。

確かに酒は大量に飲めばすぐに気持ち悪くなれるという点では手軽に限界を味わえるツールだ。(以下限界ツール)

しかし酒を覚える前、僕たちの中には勉強、部活、校外活動とありとあらゆる限界ツールがあったはずだ。

大学入学以降多くはそうした限界ツールから解放された。

代わりに僕たちは大学から覚えた酒という手軽な限界ツールに頼るようになってしまった。

人生の夏休みともいわれ、基本的に楽ばかりしている大学生は皆自らの人生に一定の苦しさを求めている。

「お前は楽そうでいいよな」だなんて言われて嬉しいやつは少ない。

だからみんな色んな限界ツールを使って自分の人生が苦しいかのように見せかける。

しかしその限界ツールが酒だけに固定されているように僕は感じる。



人の不幸は蜜の味という言葉にもあるように、人が苦しんでいるときというのは、基本的に面白い。

だがその苦しくなるまでの過程が使い古された酒ではせっかくの苦しいシーンが台無しだ。

この世界は限界ツールであふれている。

せっかく自分から限界を味わいに行くのなら、別の限界ツールを使って笑いをとったらどうだろうか。

僕の酒への考えはここ↓で彼がまとめています。よかったらご覧下さい。https://dobunezumidesu.hatenablog.com/entry/2018/10/19/171040

ヒッチハイクにまつわるエトセトラ 2

ヒッチハイクのヒッチはひっかけるという意味。
ハイクはハイキングのハイク

この事実はヒッチハイク=車という僕の固定観念を完膚なきまでに轢き殺した。

つまりヒッチハイクは何の乗り物でしても良いのである。

三輪車 車椅子 セグウェイ この世は乗り物で溢れている。

いったい何の乗り物でヒッチハイクをしようか。

そう胸を踊らせながら街の乗り物を眺めていた。

するとある乗り物に広大なヒッチスペースがあることを発見した。

ママバイシクルの後ろだ。

乗れる。そう確信した僕はヒッチバイシクルに挑戦することにした。

「自転車専門のヒッチハイクをしているのですが、よかったら後ろに乗せていただけないでしょうか?」

前回と同じく西早稲田駅前で片っ端からヒッチしてると、早速二人目でヒッチに成功した。

彼は「西早稲田キャンパスまでだけど」と言いながら唖然とした表情で快諾してくれた。

意気揚々と彼の後ろに乗ろうとしたその時、

「防犯登録の確認よろしいですか?」

突然背後から国家権力が表れた。

奴は防犯登録と言って僕たちに近づいてきた。

しかし、防犯登録は自転車の後ろ側にあるため、後ろの人間は必ず降りなければならない。

このことを考慮すれば、奴が防犯登録という名目でヒッチバイシクルを取り締まろうとしたのは言うまでもない。

奴らはこの画期的な移動方法が拡大することによって、自動車の使用者が減り、

奴らの主要産業である自動車産業が衰退することを恐れたのだ。

つまりこの取り締まりは国家権力による陰謀なのである。

僕はこうしてあえなく権力に破れた。

そして 終電の時間も近づいていた。

もう諦めて帰ろうと改札へ向かっていた。

そんな中、頭のなかにはヒッチバイシクルを思いついたときのワクワクが唐突に浮かんできた。

いくら国家権力であっても個人のワクワクまで奪っていいはずがない。

僕はワクワクを生き甲斐にして生きている。

ワクワクを捨てることはすなわち死を意味する。

奪われたならまた作り出せばいい。

ワクワクは永久器官。

もう一度ヒッチバイシクルを再開した。

十人ほど声をかけたあたりだろうか。

一人の中国人男性が止まってくれた。

先ほどの構文を使い、彼に話しかけた。

しかしどうやら意味がわかっていない様子。

そこで僕は思いきって正直に「自転車に乗りたい!」と語った。

すると彼は「足痛いの?」と心配しながら快く乗せてくれた。

流石の国家権力もこの純粋な優しさにはお手上げだっただろう。

p>ワクワクが国家権力に勝ったのである。

僕はこのワクワクという最高権力者を大切にしてこの先も生きていきたい。

あとがき 乗せて頂き本当にありがとうございました。

自転車の2人乗りは,原則的に違法となります。(道交法57条2項)

絶対に真似しないでください。


足を使わない移動方法にまつわるエトセトラ

人類は歩きすぎだ。

丸1日飯を抜くやつや風呂に入らないやつはいるが、丸1日歩かないやつはほぼいない。

人類は2足歩行動物だと言われれば、それまでだ。

しかしあまりにもこの通説にとらわれすぎなのではないだろうか?

歩行以外にも人類はまだ画期的な移動方法を秘めているのではないか?

僕は歩行歴が19年目に達し、歩くことに強い飽きを感じてきていた。

なので歩行以外の移動方法を開発し、交通革命を起こすことにした。

まず僕が思いついたのは下り坂で、爆発的なスピードを出すことができ、歩行の弱点である遅さを解決することができる転がり
(通称コロコロ)だった。

思い立ったが吉日。

僕は早速キャンパスの坂を利用してコロコロに挑戦することにした。詳細は↓まで

結論からいうと失敗だった。

確かに瞬間的なスピードは歩行を上回ったが、瞬間的な目のコロコロも歩行を上回ってしまったため、終わった瞬間すぐに大学のベンチにゴロゴロしてしまった。

これでコロコロは失敗した。

革命を起こすといった手前、簡単には引き下がれない僕はベッドでコロコロしながら、新しい移動方法を考えた。

しかし頭のコロコロだけは止まってしまい、何も浮かんでこなくなってしまった。

そんななかある衝撃的な映像が僕の目に飛び込んできた。

なんと女子駅伝の選手が膝に血糊を塗りたくりながら、ハイハイをしてゴールを目指していたのである。

その距離約200m。

走ることを専門にしている陸上選手が走りを捨ててまで、取り組むハイハイとはいったい何者なのか?

僕は生後まもなく以来19年ぶりの強烈なハイハイ欲に襲われた。

そして穴八幡宮から戸山公園までの200mハイハイに挑戦することにした。

痛い 開始わずか5mで膝に鈍痛が歩いた。

見ると膝が腫れていた。

ここで僕は大きな見落としに気づいた。

あの駅伝選手の膝についていたのは血糊ではなく本物の血であると。

彼女は血だらけになりながらハイハイしていたのである。

ここで痛みに負けるというのは、彼女の根性への冒涜だ。

僕は必死に手を動かした。

途中何度も「大丈夫か」と声をかけられた。

気づかいはとてもうれしいが、頭のことを聞いてるのか、膝のことを聞いてるのかわからなかった。

とりあえず膝は大丈夫だったので「大丈夫だ」と答えた。

すると頭のことを聞いてるのだとでも言いたげな困り顔で去っていった。

どっちなのかはっきりしてほしい。

そんなこんなで200mハイハイしきった頃には膝は見たことないほど真っ赤に腫れていた。

後から調べてみると彼女はすねの骨を折っていてまともに立つこともできてなかったとのこと。

そんななかで襷をつなぐというただ一つの目標のためにハイハイに手を出したのである。

途中何度も立ち上がって休んだ僕に比べるとあまりにも強すぎる。

歩行を捨てるにはそれだけの強さと覚悟が必要なのである。

僕にはまだ早すぎた。

いつか強くなってもう一度脱歩行に挑戦したい。



コスプレにまつわるエトセトラ

ちんこと度肝は抜くためにある

自称21世紀を代表する文学者はそう語った。

この言葉が僕に与えた衝撃は凄まじく、僕は一瞬で肝臓と局部を抜き取られてしまった。(後日返却済み)

思えば僕はこれまでちんこしか抜いてこなかった。

理由は簡単。気持ちいいからである。

度肝を抜くことが気持ちいいとは到底思えなかった。

しかし某文学者はちんこと度肝を同列に語った。

つまり度肝はちんこなのであり、度肝を抜くと気持ちよくなるはずなのである。

このことに気づいたエピクロス信者の僕は早速度肝抜きに挑戦することにした。

肝心の度肝とは何だ?

どうやら心や精神などを指しており、度肝を抜かれるというのは心や精神を抜かれるくらい驚くという意味だそうだ。

心や精神を抜かれるほどの衝撃とは

僕は度肝をすり減らし考えた。

その結果出た答えは変身だった。

ある日急に同級生がキョンシーに変わってしまったら、いくら鋼鉄の度肝でも飛び出すに違いない。

そう思い立った瞬間、自らの発想に僕の度肝は完全に抜かれ、気づくと全身キョンシーになっていた。(後に口座からも3000円が抜かれてた。)

こうして度肝抜き師としての才覚に目覚めた僕はキャンパスという名の度肝畑を収穫し尽くした。

気持ちいい なんて気持ちいいんだ

写真をとられようが、陰口を言われようが、全てがごほうびでしかない。

またこうして度肝を抜き続けていると、彼らの抜かれた度肝が持つエネルギーが変換されたからか、僕の背中からそうぞうの翼が生えてきた。

<

僕はこれまで抜く瞬間に放たれるエネルギーが飛行につながると信じていた。

しかしどうやら抜く対象を間違えていたようだ。

抜くのは度肝だけで十分だ。

度肝を抜き続ければ、いつか飛べる日が来るかもしれない。



!– wp:paragraph –>

裸にまつわるエトセトラ

                  裸だったら何が悪い

この某草なぎ剛氏によるゲイノウ人生を賭けた問題提起から早10年がたとうとしている。

しかしいまだに私たち人類はこの深淵な議題に対して明確な回答を出せていない。

人間は元々裸だった。

僕が先日紹介した縄文人も裸だった。

なぜ人間は裸を捨てたのか。そしてそこにはどんな理由があったのか。いったい裸でいることにどんな問題があるのか。と疑問は尽きない。

今回は人類のさらなる発展に不可欠なのにも関わらず、数億年にわたって見過ごされてきたこの議題について考察していこうと思う。

まず裸を語るうえで切っても切れない関係にあるのは衣服の存在である。

現在多くの人類が衣服を着用していることから、衣服の誕生を紐解いていくことが、人類が裸を捨てた理由に近づくきっかけになるのは言うまでもない。

人類が衣服を着用するようになったのは約7万年前といわれている。

理由はいたって簡単。寒くなったからである。(wikipediaより)

寒くなったから服を着て暖をとる。あたりまえ。

正直この理論には突っ込む余地もないし、突っ込む気も起きない。

ここでの問題はその逆である。寒いという肉体的な理由で服を着始めたのにも関わらず、なぜ暑くなったときに服を脱がないのか。

しばしば通気性のよい服といった広告を見かけるが一番通気性がいいのは間違いなく全裸である。

そんなこと少し考えれば誰でもわかるはずだ。

暑いと言うなら裸になれ。

なぜ人間は裸になることを恐れるようになってしまったのか。

裸になることが問題視される理由の一つとして、しばしば性器の露出が挙げられる。

多くが他人の性器を気持ち悪く思うということに僕は異論はない。

しかし気持ち悪いという理由だけで性器を排せいきしようというなら、キモイ顔は常にガスマスクをつけなければならなくならず、

すだれ禿は常に帽子をかぶらなければならなくなる。

ブスと露出狂は3日で慣れるという言葉をあるように、人間はどんなに気持ち悪いものでも慣れてしまうのである。

ここで誤解して欲しくないのは、僕は裸になることが好きなだけで、必ずしも服の存在を否定しているわけではない。

寒い時には服を着るし、なんなら暑いときにも着ている。つまりただの服依存者だ。

服の暖をとれるという良さを理解しつつも、 裸になりたいときは裸になれる

そんな自由な世の中になって欲しい

それこそが某氏が伝えたかったメッセージだと僕は思う。


タピオカにまつわるエトセトラ

最近僕の大学ではスカトロが流行っている。

大学近くに最近オープンした粘り気を売りにしたミニうんこ店には連日長蛇の列ができている。

どうやらそのミニうんこを飲むのが最近の大学生のステータスなようだ。

元々スカトロに興味があった僕はこの情報を耳にし早速例の店に行ってみることにした。

しかし高い 高すぎる。いくらスカトロに興味のある僕でもあんな少量のうんこに大金をはたくことはできない。

なので僕は今回並んでいる奴らに自作うんこにも良さがあることを伝えるために、うんこ作りに挑戦することにした。

まずうんこ作りに一番大切なのは粉である。

僕はこの粉の入手は困難を極めるのではないかと感じていた。なんせそんな粉を集める奴はいないのだから。

恐る恐るamasonで検索をかけてみるとなんと一瞬でヒット。それも1km700円という破格。

ついにスカトロもここまできたか。

本当にこの世のスカトロブームには感服せざる負えない。

p>

そんなこんなで禁断の粉を入手してしまった僕は早速うんこ作りに取り掛かることにした。

しかし難しい。小さくまとめたうんこはことごとく崩れ下痢状に変わっていった。そしてうんことは思えないほどまずい。

このままでは流行に乗れない。そんな恐怖を覚えた僕はここでうんこの原点に立ち返ることにした。

なぜ皆ミニうんこを喜んでいるのだろうか。

うんこした時に圧倒的に満足度の高いのはデカうんこをした時ではないだろうか。

だったらデカいうんこを作ればいい。

そう思い立った僕の行動は早かった。

板うんこを使い一瞬でうんこらしさの倍増に成功。

ちまちまうんこをひねり出すのをやめて、力の入れ方を変えることによって、一瞬で三個のデカうんこを創造した。

これからはデカうんこクリエイターとして生きていくのもありかもしれない。

そして最後には僕にうんこの素晴らしさを教えてくれたミニうんこ店でうんこ用吸引具を頂戴し、世界に一つだけのうんこが完成した。

このうんこは旧作の欠点でもあった空腹感を解決するとともに、旧作の良さでもあるおしゃれさも兼ね備えた最強の一品である。

スカトロに興味を持つ友人もこのうんこの美味しさへの感動からか、半分も飲まずに捨てていた。

これからのうんこには見た目だけではなく物理的な満足感も必要であることに異論はないはずだ。

今後のスカトロブームの繁栄を願ってやまない。



nbsp;

ヒッチハイクにまつわるエトセトラ

大学生はとにもかくにもヒッチハイクしがちだ。

何か変わったことをしようとなったときにすぐヒッチハイクに頼る

僕もそんな学生の一人だ。

しかし長年僕はヒッチハイクに関して大きな疑問を抱いていた。

勉強でも仕事でも万物は簡単なことからやっていくものだ。

ヒッチハイクは違う。いきなり100kmや1000kmに挑戦する。

これはどこかおかしい。

いきなりこれだけの距離のヒッチハイクが簡単に成功してしまうのなら、

ヒッチハイクは万物の道理に反し物事ではなくなってしまう。

いやそんなはずはない。ヒッチハイクだって必ず順序を踏むべきはずだ。

ヒッチハイクだって物事なのだから。

そんなわけで今回ヒッチハイク童貞の僕は

西早稲田駅から早稲田大学までの750mヒッチハイクに挑戦することにした。

駅から大学まで直線道路であることを過信していた僕は

正直すぐに車を捕まえられると思っていた。

何ならすぐに捕まえて、

駅から歩くくぐらいならヒッチハイクしたほうがいい

とマウントをとるつもりだった。

しかし 捕まらない 思った以上に捕まらない。

たまに捕まったかと思うとそれはタクシー。

今回きみに用はない。

そして近づく3限開始時間…

今日は下半身を鍛えすぎてまともにあるくことができないので、

ヒッチハイクしなければ大学にたどり着くことはできない。

諦めて帰ろうとしたその時

目の前で一台の車が止まった。

こんなチャンスはない。

車の前で待ち伏せし話しかけた。

すると心よくOKをもらった。

僕はこの方に行き先を戸山公園と伝えた。

しかし彼は戸山公園の場所をよく知らない様子。

とりあえず真っ直ぐ行けば着くと伝えると、

戸惑いながらも車を走らせてくれた。

そして1分後目当ての戸山公園が見えたため、

止めてくれるように伝えた。

この発言はヒッチハイク=長距離移動の思考を持っていた彼と車を大きく揺らした。

運転中にドライバーの心を乱すようなことを言ってはいけないと

強く感じたヒッチハイク体験だった。

PS 乗せてくださってありがとうございました。



自給自食にまつわるエトセトラ2

前回の予告通り今日から自給自食生活が始まった。

その名の通りこの生活では自分の食事は自分で調達しなければならない。

自給自食といえば黄金伝説くらいしか思い浮かばない、スラム街並みの発想力を持つ僕は芸人達が魚ばっかり食ってたのを思いだした。

なので平坦な道を上り坂に感じることのできるトレーニングにはぴったりなmy自転車に乗って釣りに行くことにした。

しかし祝日と大漁いうエサに釣られた釣られ師達によって釣り場は大混雑。

釣られたもの達が朝方さらに弱いものを釣ろうとしているという電車・電車の歌詞がこんなに身にしみたのは初めてだ。

そんなこんなで何とか場所を見つけ、釣りを始めた僕であったが、これまでの釣りとはなにかが違う。

そのなにかが考えてるうちに一つの結論にたどり着いた。

それは今回の釣りがまさしく生きるために行っているということである。

これまでの釣りであれば、たとえ釣れなくても家には飯があった。

しかし今回の釣りでは釣れなければ飯は無しだ。重い釣り道具がプレッシャーでいつも以上に重く感じる。

釣りを楽しむ余裕は全くない。ただその日の飯のために淡々と釣り続けるのである。

幸い物資にあふれた現世では僕はこの生活をいつでもやめることができる。

しかし縄文時代の狩猟・採集民にはその選択肢はない。

となると彼らは普段から明日の食事がどうなるのかわからないというとてつもないスリルのなか生活していたことになる。

ドングリは食い、狩りをもこなすこいつらはいったい何者なのか。

本当に強い。強すぎる。

僕らはその強い民族の末裔であるはずなのに、なぜこんなにも弱くなってしまったのか。

文明が発達し、強くになるに連れて人間は弱くなってなってしまったように感じる。

人間として強くなるには文明を弱くするしかないのだ。

蛇足はここまでにして本題の釣りに入ろう。

結論から言うとそれなりに釣れた。普段の釣りだったら大満足だろう。しかし今回の釣りは生きるために行ういる。

その観点からいえばやや物足りないのは間違いない。

こいつらと先日命懸けで採集したドクダミを油地獄に落としたのちできた弁当がこれである。

お世辞にも美味しそうとは言えないだろう。

しかし魚は言うまでもなく意外なことにドクダミから採集したときの強烈な臭いがほぼ消え、ソフトな臭いとなっていた。

このくらいの臭いだったらそれほど気にならないので、とても美味しく頂けた。

問題は量である。明らかに少ない。これでは縄文人のように強くはなれない。

あいつらはいったいどれだけの量の魚をとっていたのだろうか。

改めて縄文人のすごさを感じる企画であった。



自給自食にまつわるエトセトラ

唐突だが今週は自給自食をしようと思う。

しかし一口に自給自足といっても魚を釣るためのエサのことや公園の水道水が誰かによって処理されたものであることを考慮すると、きりがない。

よって今回は食材を自分で供給して、食糧自給率を限りなく100%に近づけることを目指す自給自食生活に挑戦することにした。

今日はその一環として野草を調達するために、野草と言えば河川敷だろうということで多摩川に向かった。

途中にドングリが大量に落ちているのを発見した。縄文時代の人々はドングリを主食にしていたはずだ。

ドングリは食える!

思わぬ幸運にテンションの上がった僕は見渡す限りのドングリを拾った。ドングリを拾ったのなんて小学校以来だ。

p>だからなんだ。正直何も考えずただ楽しいと思っていたことをやっていたあのころは輝いていた。

まずはあのころの自分ができたことをできなきゃあのころを越えることはできない。

ドングリを拾い集め、幸先の良いスタートを切った僕は次に河川敷へ向かった。

案の定 河川敷付近にあった公園には野草がわんさか生えていた。これこそ本当の草生えるだ。

テンションマックスの僕。これだけ草が輝いて見えたのは初めてだった。

しかしここで大きな問題が発生した。

どれが食べられる草なのか全くわからないのだ。

僕は正直食べられる野草については何の知識もない。

とりあえずスマホで野草について調べてみたが、違いが全くわからない。まるでサークルの集合写真のようだ。

そんな中である野草が僕の小学校時代の記憶を呼び覚ました。

そいつの名はドクダミだ。小学校時代、僕の友人は通学路にあるドクダミをちぎって食べていた。

当時彼はくさいまずいと言いながら必死に食べていたが、後で体調不良になった話を聞いたことはない。

そのことを思い出した瞬間、数ある野草から瞬時にドクダミを見つけ出す能力を手に入れた僕は一心不乱にドクダミをかき集めた。

一通り河川敷からドクダミを捕まえたあと、歩道にでると他の野草が生えないような道路脇にドクダミが大量に生えているのを発見した。

この時僕は大衆の中で個性を発揮するだけでなく、我が道をも突き進むドクダミの姿に感銘を受けた。

正直ドクダミは臭い。代弁みたいな臭いがするし、触ると手にも移る。

そんな植物としての欠点を持っていても、自信満々に他の野草のいない地帯に進出するドクダミの強さ。

僕もこの植物に見習ってうそでもはったりでもいいから、常に自信を持って行動していきたいと感じた。

 



ネットとリアルにまつわるエトセトラ

僕は今日とてつもない虚無感に襲われた。

理由は一つしかない。某アプリで知り合った女性にドタキャンされたからだ。

2週間ほど僕は知らない映画があれば、内容を調べ、知らない曲があれば、その曲の良さを調べるといった相手の好みに徹底的に合わせるという退屈極まりない会話を行っていた。

そんななかでしびれを切らした僕は直接エンカウントを申し出た。すると彼女は日曜日であればエン可と答えた。

彼女は背が高く僕好みの外見をしていたため、正直まいこ上がった。そしてエンカ場所を決め、時間を決めようとしたその時歴史は動いた。

なんと急にトークルームから彼女  の名が消えたのだ。

僕はアプリの不具合を疑い何度もログインし直したが、結果は変わらなかった。

後に調べてみると相手にブロックされた場合にトークルームから名前が消えるとのこと。

確かにネットでの約束なんて、痕跡さえなくしてしまえば、いくらでも無かったことにできるし、関わりたくない人間をすぐに消すことができるのもネットの特権である。

だがいくらネットであってもそれを動かしているのは実際に生きている人であり、約束を破ったり、人を傷つけるようなことをすれば、必ずその人は悲しんでいるのである。

僕たちはリアルであれば、どんなことを言ったら他人が傷ついてしまうのかを無意識のうちに想像する。

どうしてネット上ではそうした想像力がなくなり、他人を傷つけるような行動を平気でとってしまうのだろうか。

以上の経験をもって改めて感じるのが、リアルで関わることの大切さである。ネットで会話できる量は限られている。

例えば数十通ラインを交わしたとしても、それを実際の会話に換算したら数分にも満たない会話になる。

つまりネット上でどれだけメッセージを交わしても、数分の立ち話にすらならないのである。

僕は某アプリを通して、そのことを痛感した。メッセージを数十通交わしただけで仲良くなった気になっていた。

冷静に考えれば数分話しただけの人間と会おうとはなかなか思わないだろう。

しかしここにジレンマが存在する。相手側がメッセージのみでしか、関わろうとしなかった場合、会うまでに途方もない時間が必要となってしまう。

そもそもネットではなぜこんなにもリアルの初対面を恐れるのか?

僕たちは小学校 中学 高校 大学 と数えきれないほどの初対面を経験している。そこでは一部を除いて、事前にやりとりを行うことなどない。

それでも僕たちは何の疑いも持たず周囲の人に話しかけ交遊を広げていく。

もう一度言うが、ネットを動かしているのはリアルに存在する人間である。

つまりネット=リアルなのである。リアルではダメだが、ネットではいいなんてものは存在しない。

僕はそこ履き違えないで生きる。