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万物は反射神経である 2

真に良いアイデアは、
ほとんどの人にとってひどいものに
見えるだろう。
そうでなければ誰かが既にやっている

ポール・グラハム

TOEICに通じる反射神経を鍛える上で多くの人々が思いつくのはやはり単語暗記であろう。

そんなことは気の緩みきった試験前の僕ですら容易に思いついており、実際に単語帳を作って何度も復習をしていた。

結果はどうだ?

基本に忠実な勉強法では反射神経を高めるには至らず、15問の空白を産み出した。

誰もが思いつくような方法ではダメだ。

「英語への反射神経」に囚われているから英語に関係するアイデアしか浮かばないんだ。

僕は一旦’英語’という概念から離れ、解決策を模索した。

反射神経を高めるためには?

反射神経を必要とするものは?

反射神経とは?

一通り考え抜いた僕の頭にあるアイデアが浮かんだ。

バッティング

そうだバッティングだ。

唐突に飛び込んでくる高速の球体に全身で反応するバッティング

これほど反射神経を鍛えるのに適した方法はないだろう。

英語とバッティング。

一見無関係に覚える二つの事柄がいま繋がった。

バッティングに強い可能性を感じた僕はすぐさま近隣のバッティングセンターを調べ、ある興味深いバッティングセンターを発見した。

「バッティングセンターブンブン」

素晴らしい名前だ。おそらくこの「ブンブン」という名称は「(英)ブン(英)ブン」という意味であり、バッティングを通じて英文読解力が上がるということを示唆しているのだろう。

やはり英語とバッティングには何か関係性がある。自らの仮説に自信を深めた僕はすぐさま「バッティングセンターブンブン」に向かった。

東急東横線菊名駅から徒歩13分。「バッティングセンターブンブン」は閑静な住宅街のど真ん中に堂々と鎮座している。

中に入ると既に英語の成績に困っていそうな野球少年たちが黙々とバットを振っていた。

彼らも英語の成績向上を願ってこのバッティングセンターに通っているのだろう。

彼らの真面目な姿に刺激を受けた僕は早速ゲージに立ち、バッティングを開始した。

当たらない。

100kmそこらの棒玉に僕のバットはことごとく空を切った。

辺りを見渡せば周りの少年たちは次々と快音を鳴らしている。

すごい。彼らはみなTOEICスコア900越え揃いに違いない。

こうして周りに感嘆しつつも簡単に空振りを重ねているとあっという間に1ゲームが終了した。

やばい。これでは反射神経のトレーニングどころではない。

100kmのボールにすら反応できない男が1000文字以上の英語に反応できるはずがない。

僕はどうすればボールに反応できるか考えた。

ふと昔観ていた2chの野球応援スレッドに「坂本勇人選手のフォームが打ちやすい」という書き込みがあったのを思い出した。

つい先日2000本安打を達成した坂本選手のフォームなら、1000文字、いや2000文字の英文にも反応できる反射神経を得られるに違いない。

僕は藁にもすがる想いで坂本選手のフォームを確認し、頭に叩き込んだ。

そして再度ゲージに立ち、彼のフォームの代名詞である高く足を上げてボールを待った。

カキーン!

これまでの不振が嘘のように鋭い打球が左後方へ飛んでいった。

打てる。打てるんだ。

自信を獲得した僕はその後も強い打球を連発した。

一通り打ち終えた僕は100kmゲージの隣に140kmゲージがあるのに気づいた。

僕は迷った。

このまま気持ち良く打つのであれば100kmだろう。

いや違う。

今日はストレス発散のために来ているのではない。反射神経強化のために来ているのだ。

140kmすら反応できないようでは、TOEIC9割など夢のまた夢であろう。

#打てっこないを打たなくちゃ

坂本打法への自信と未知なる140kmへの恐怖。

二つの相反する感情を抱え、僕は打席に入った。


速い 速すぎる。

僕が大きく上げた足が地面に着く間もなく140kmの火の玉ストレートが突き刺さった。

テレビであれだけ遅く見える140kmがこんなにも速いとは。 

この速さの玉をいとも簡単に打ち砕くプロ野球選手の反射神経には感服せざる負えない。

その後も僕はさっきまでの快音が嘘のように空振りを連発した。

僕は自らの反射神経不足から足を大きくあげる坂本打法への限界を感じ、よりタイミングのとりやすいすり足の元阪神マートン打法に切り替えた。

マートン打法に切り替えたことにより、超降り遅れが減り、バットにかするようになった。

しかし素人のすり足打法は実質ただバットを振り下ろしているだけに過ぎない。パワーを失った僕のスイングはことごとく140kmの球威に負け、バックネットに次々とボールが溜まっていった。

ファールチップと空振りを重ねること数十球。

ついにその瞬間はやってきた。

例のごとくマートン打法でボールを待つ僕、これまた例のごとく無慈悲に白球を投じるマシン。

僕は運動不足からなる腰の痛みにも耐え、必死にバットを降った。

ゴツン

鈍い金属音と共に宙に舞った白球は、僕が打球の行方を追う間も与えず、1メートル前に力なく落ちた。

手元を見るとバットの柄の部分に白い跡がついていた。

完敗だった。

僕の反射神経は所詮100kmレベルでしかないのだ。

この程度の反射神経では15問残しも無理はない。

前述した元阪神マートン選手は圧倒的な反射神経でプロ野球安打記録を達成し高額な年俸を得るだけでなく、TOEICスコア900以上を記録可能な高い英語力も獲得していた。

優れた反射神経を獲得することはバッティングだけでなく、英語力向上、収入増加にもつながるのだ。

これらの例からもいかに人生において反射神経が重要であるかよくわかるだろう。

僕の反射神経はまだこうした一流反射神経者に遠く及ばない。

世界の全てを獲得するために。

僕は今日もバットを振り続ける。

万物は反射神経である 1

万物は反射神経である。

これは2020年11月、僕が出した結論の一つだ。

なぜ反射神経なのか。

これから綴る内容を読めばあなたも理解できるはずだ。

僕は先日TOEICを受けた。

就活に使えそーとか英語力測りたーとかいう安直な理由からだ。

もちろん勉強はしていたが、留学後のワンチャンスに掛けていたHSKに比べて気の緩みは明らかだった。

こうした緩みは試験当日にしっかりと表れた。

僕は試験の必須品とも言える時計を忘れてしまったのだ。

時計の無い試験会場と豪勢な時計をテーブルに誇示する受験者たちの姿を目の当たりにし、一瞬焦りを覚えたが、「10分前になったら試験官が教えてくれるだろう」という安易な想定に身を委ねてしまい、その時はあまり深く考えなかった。

若干の不安を覚えつつ試験は始まった。

人間とは不思議なもので不安があろうが、気が緩もうが、試験が始まった途端に忘れてしまう。

僕もその例外ではなく絶え間なく現れる英語と格闘しているうちに時計のことなどすっかり忘れてしまっていた。

そして試験も残すところあと15問。

「以外といけたんじゃね」

そんな考えがちらほらとよぎる頃だった。

‘試験を終了します。解答を止めてください’

!?

終わり!?

10分前コールは?

初老試験官の無情な宣言により試験は突然終了した。

唖然とする僕を尻目に初老試験官は手際よく試験用紙を回収していった。

僕が最初に覚えた感情は怒りだった。

試験終了10分前を告げない初老試験官への怒り、腕時計を忘れた自分への怒り。時計を置かない試験会場への怒り。

しかし僕はこれらの怒りが全て的外れであることにすぐに気がついた。

何が一番悪い?

全ては僕の英語力不足だ。

全ては僕の読解速度の遅さだ。

試験官、試験会場、腕時計 仮に全部理想であっても15問落とす事実は変わりないのだ。 

ではなぜ長文読解が遅いのか。

長文読解の肝は大量の英文と英単語に対して素早く反応して理解することである。

いわば英語への反射神経力は読解力に直結する。

僕にはこの反射神経が圧倒的に足りていなかった。

反射神経を高めなければ、時間内に全ての問題を解くことはできない。

僕の反射神経強化訓練がここに始まった。

続く

「無」の生活への受容

帰国したから半年が経った。

一時期なシノギ削りのためのはずだった帰国も某ロナの影響によってずるずると半年まで延びてしまった。

この半年間を一言で例えるなら間違いなく「無」である。

勉強、労働、ゴロゴロ。

僕は半年間これらのルーチンワークをただただ淡々と続けてきた。

「マイホビーイズゴロゴロ」を自称し、元々予定が無ければ、ほとんど家を出ることのない僕にとってこの生活は決して苦ではない。

しかし中国各地を転々とするホームレス旅を続けていた半年前との生活落差は凄まじい。

マイホームにどっぷりと浸っている今の姿を半年前のホームレスだった僕はすぐに信じることができないだろう。

何かが起きることが当たり前だった旅生活から何も起きないことが当たり前な家生活。

僕の生活はこの半年間で完全に「有」から「無」へと変わった。

無の生活へ変わったいま、ドキッとする質問がある。

「最近何してるの?」

友達から何気なくされるこの質問。

有の生活時であれば、特に考えることなくすぐに「旅してる」とでも言えるのだが、無の生活の今では若干の思考が必要になる。

「そういえば最近自分て何してるんだろう」

とりあえず最近やっていることを思い返して説明するけれど、どこか自信無さげになってしまう。

自分がやっていることを自信満々に説明できないというのは、自分の生活に100%満たされている訳ではないということの証拠なのだろう。

すっかり削りがいの無くなったシノギに関してもそうだ。

お金が増えているというのは、裏を返せばそれだけお金を使ってでもやりたいと思うことが減っているということだ。

世の中 楽しいことをするにはどうしてもお金が必要になる場合が多い。

今までの人生を振り返ってみても、本当に充実していたと感じる時期は必ずお金が減っている。

貯蓄の増加はワクワク度の低下なのである。

だがしかし前述した通り、僕はいまの生活が嫌いという訳ではない。

冷静に考えればこれまでの人生「無」であった時間のほうが圧倒的に多い。

いわば人生は「無」であるのが当たり前なのだ。

人生が「無」であることに絶望する必要は全くない。

「無」の時があるからこそ、「有」の時と現れる。

永遠に「有」の生活というのはある意味永遠に「無」であるのに変わらない。

当たり前の「無」を受け入れて、「有」の時を待つ。

そのくらいのモチベーションで日々を生きてゆきたいと常に思う。


マスク作りの持つパワー

マスク不足。

この言葉が世間を賑わせるようになってからどれだけの月日が経っただろうか。

街にはマスクを求め集まる人が溢れ、ネットには製造地不明の高額なマスクが溢れ、といった具合に依然としてマスク不足の現実は続いている。

森羅万象担当大臣安倍晋三氏渾身のマスク配布作戦も不良品が多く混じるなど根本的な問題解決に寄与しているとは言い難い。

そんな中、巷では今世紀最大と言えるであろうマスク作りブームが訪れている。

#手作りマスクや#マスク作りとひとたび検索をかければ、時間と自己顕示欲をもて余した人々たちによる自信の作品たちが画面を多い尽くす。

マスクが無いなら作れば良い。

石油が無いなら作れば良いといった具合で石炭から石油を作ろうとしていた戦時中を彷彿とさせるような日本の代用精神は今もなお脈々と受け継がれていたのだ。

それにしても老脈男女をこれほどまでに熱狂させるマスク作りとはいったい何なのか。

彼らは単に「マスクが無いから」という固定観念に縛られ、半強制的にマスクを作っているのか。

はたまたマスク作りに人々を興奮させる強烈な魅力が存在するのか。

家庭科の授業以来一切裁縫に触れていない僕の想像力では「マスク作り」が生み出す化学反応が何なのか全く分からなかった。

想像できないなら創造しろ。

某有名動画配信者が以前語っていたこの言葉のように、世の中には当事者にしか理解し得ない感情がある。

実際にマスクを作ってみれば、マスク作りが持つ力を理解できるかもしれない。

こうして僕はマスク作りを始めた。

マスク作りに必要な物は布、ヒモ、針、糸とそれほど多くはない。

僕はまずメルカリにて600円で購入した正体不明の白い布を裁断し三つ折りにした。

マスク作りのサイトには横57cm×縦21cmで裁断すると書いてあったが、生地の長さが縦30cmだったため、9cmという微妙な長さの生地が余ることを嫌い、縦の長さの調整を怠った。

まあ僕は顔がデカいから大丈夫だろう。

#デカさは強さ

この怠惰が後に大きな悲劇を呼ぶこととなる。

次に左端と右端を2cm折り、縫い合わせた。

文章にすればたった一秒で終わるこの工程も裁縫不足の僕にとっては永遠に感じるようなものであった。

固すぎる布

たま結び失敗による糸のすり抜け

原因不明の絡まり

針の紛失

目立つ縫い目

なぜ人々はこんなにも面倒な作業に熱中するのか。

当時の僕には全く理解することができなかった。

こうして悪戦苦闘すること1時間、ようやく両端を縫い合わせることに成功した。

あとはヒモをつけるだけ。

あいにく僕はこの時マスクのヒモを切らしていたため、使い捨てマスクのヒモを切って用いることにした。

マスクを使ってマスクを作る。

マスク不足の解消には全く寄与していないこの方法だが、ただマスクを作りたいだけの僕にとっては何の関係もない。

僕が解消したいのはマスク不足ではなく、マスク作りの持つパワーを理解できないということから端を発するストレスだ。

つまりハンドメイドマスクパワーをノットアンダースタンドなのがストレスフルなのだ。

そんな訳で僕は使い捨てマスクのヒモを左右四ヶ所に縫い合わせ、初めてのマスクを完成させた。

デカい。 明らかにデカい。

布マスクは洗う度に縮むため、大きめに作ったほうが良いという定説があるが、それを考慮してもこのマスクはデカ過ぎる。

21cmという推奨を無視したことが大きな仇となった。

仮に政府が配布していたら間違いなく暴動が起きるレベルのサイズである。

試しにこの状態で近所を歩いたところ驚異の2度見率50%超えを獲得した。

これはコスプレ時の2度見率に匹敵する高い数字である。

色も形も均一化された市販マスクでは決してなし得ない結果であろう。

僕は手作りの持つパワーが何たるかをようやく実感したような気がした。

手作りマスクは自由度が高い。

布もサイズもカラーも作り手の思うがままだ。

数多くの楽しみが消えた殺伐としたご時世では、マスク作りが気軽に自らの個性を出せる自由度の高いコンテンツとして人気を博しているのだろう。

単に生活必需品製造に留まらず、作り手の創作意欲も掻き立てる。

これこそがマスク作りの持つパワーだと僕は感じた。

PS 僕の作ったマスクは着用2日目でヒモが外れた。

国民的アニメに潜む陰謀~はぐしちゃおと西洋諜報機関~

今年1月の発生以降猛威を振るい続ける新型コロナウイルス。

世界での感染者数は既に170万人を越え、各方面への影響も計り知れない。

我が国日本にとってもこの窮状は例外ではなく、先日緊急事態宣言が出されたのを皮切りに、国全体にかつてないほどの緊張が走っている。

その一方で発生地である中国にほど近く、2月上旬から感染者が出ていたのにも関わらず、比較的感染のピークを遅らせた日本の対策を評価する見方もある。

この要因は諸説あるが、その1つに日本人の衛生意識の高さが指摘されている。

「日本人は西欧人のように挨拶代わりの握手やハグをしない。」

他国のような強権的な政策を行っていないにも関わらず、比較的感染者を抑えることに成功していることを考慮すると、この説には一定の信憑性があると私も感じる。

しかし遡ること約15年ほど前、この日本を救った公衆衛生の意識を破壊しようとする危険な動きがあったことを皆さんはご存知だろうか。

まずはこの曲をお聴き頂きたい。

この曲は2005年から国民的アニメ「ドラえもん」のオープニングに使われた「はぐしちゃお」である。

歌詞の中心部には

はぐしちゃお はぐしちゃお

大人も子どももはぐしちゃお

はぐしちゃお はぐしちゃお

犬にも猫にもはぐしちゃお

といった「人と人との接触を8割減らす」という現在の考えとは真っ向から反する価値観が語られている。

それまでのドラえもんのオープニングは「あんなこといいな♪できたらいいな♪」でお馴染みの「ドラえもんの歌」が約20年ほど使われていた。

すっかりお茶の間に馴染んだ「ドラえもんの歌」を切り捨て、日本人に全く馴染みのないバグを強要する「ハグしちゃお」を起用するという手法には強い疑問が残ると言わざるを得えない。

なぜ「ハグしちゃお」がドラえもんの主題歌となったのか。

そこには数十年後を見越した危険な陰謀が隠されていると私は考える。

西洋諜報機関によるハグ文化定着を足掛かりとした国力低下工作

日本は時にこう呼ばれることがある。

「スパイ天国」

ひとえにスパイ防止法が存在せず、仮にスパイ行為が発覚しても重罪を課されることが無いということがこの不名誉な名称に繋がっている。

それゆえに日本では第二次世界大戦後からアメリカを筆頭に様々な国家のスパイたちの温床となってきた。https://diamond.jp/articles/amp/213851?page=2&skin=amp&device=smartphone&display=b

戦後急速な経済発展を遂げ、西洋諸国をも脅かす存在となった日本を機密情報と妨害工作によってコントロールするのは彼らにとって重要課題であったに違いない。

先ほど掲載したリンクの情報が正しければ、政界から経済界はたまたエンタメ業界まで、西洋諜報機関が多くの役割を果たしてきたのは確かである。

しかしそんな西洋諜報機関をもってしても崩すことのできなかった概念がある。

「公衆衛生への意識」

終戦から現在まで日本は多くの分野において進歩的、開明的と称して西洋の考えや流行を取り入れてきた。

ある者は常々西洋的な生活を自慢し、またある者は西洋と日本の違いを日本の劣等性と捉え、批判を続けてきた。

そんなすっかり西洋かぶれした日本において唯一といっていいほどに浸透しなかったのが衛生観念に関係する文化である。

握手やハグ、そして土足へ家に上がるといった西洋では当たり前のように存在する文化。

どれも日本では「汚い」「気持ち悪い」といった理由で浸透することは無かった。

これらの衛生意識の高さは思うが儘に日本を管理してきた西洋諸国にとってはさぞかし歯がゆいものであったに違いない。

またそれと同時に衛生意識の高さを問うような世界規模の災難が起きた場合に日本の一人勝ちを許してしまうのではないかという危機感を募らせるに十分なものであっただろう。

いかにして日本人の衛生意識の高さを崩していけば良いのか。

特にバブル経済が崩壊し、経済面において日本が脅威でなくなった1990年代後半以降にはこの問題に関する議論が盛んに行われていた可能性が高い。

「握手はあいさつ」「ハグはコミュニケーション」

彼らは薄っぺらい標語を使い日本に濃厚接触文化を根付かせようと試みた。

しかし西洋かぶれしたうさん臭い中年の言葉に耳を傾ける者は多くはなく、時間だけがただただ空しく過ぎていった。

そんな時彼らが目をつけたのが国民的アニメ「ドラえもん」であった。

「アニメキャラを通じてハグ=友好の証という印象を子供たちに植え付ける。そしてハグは素晴らしいものという価値観を持って成長した子供たちが十年後若者の最先端の文化としてハグを広める。」

ざっと彼らの計算はこんなところであろう。

2005年4月「ドラえもん」はリニューアルと称してキャスト、画風、そしてオープニングを一掃した。

キャストの高齢化や時代に合わせた画風の変化は理解できるものも、オープニングに関しては、

アニメ版「ドラえもん」において歴代オープニング曲のタイトルに「ドラえもん」という名称が使われていないのはこの「はぐしちゃお」のみである。

国民的アニメのリニューアルのオープニング曲という重要な局面に日本人にとって馴染みの浅いハグを全面的に推し出す曲の選出は不可解である。

私はこの「はぐしちゃお」の選出過程において西洋諜報機関が何らかの形で関わっていたと考える。

先述のリンク先には西洋諸国の諜報員は日本の様々な大企業に属しているという記述があった。

産業スパイの目的の一つに「利益追求の目的達成を阻害したり、その機能を破壊する行為」があるということを考慮すれば、

従来の慣習通り「ドラえもん」というタイトルが入ったオープニングを採用するという「目的」を大企業に潜む諜報員がハグ文化推進のために「破壊」した可能性も大いに考えられる。

さらに西洋諜報機関の影響を示す根拠はこの「はぐしちゃお」の曲そのものにも強く表れている。

はぐしちゃお はぐしちゃお

大人も子どももはぐしちゃお

はぐしちゃお はぐしちゃお

犬にも猫にもはぐしちゃお

互いにハグをする愛くるしいキャラクターと共に「はぐしちゃお」というフレーズ繰り返し、子どもたちの脳の中に刷り込む。

明らかに洗脳だ。これを洗脳と呼ばずして何を洗脳と呼ぼうか。

これを聞いた無知な子供たちは「ドラえもんがやってるから正しいことなんだ」と考えるようになってしまってもなんらおかしくはない。

またこの曲の中心である「はぐしちゃお」というフレーズにも西洋諜報機関の特徴が存在する。

この曲はあくまで「はぐをしろ」という命令形ではなく「はぐしちゃお」という自発系を使っている。

先述のリンクに諜報機関の特徴としてこのようなことが書かれていた。

「脅迫をするのではなく、そこを突破口にして、あくまで自発的に協力をしてくれるように仕向けていくのだ。」https://diamond.jp/articles/amp/213851?page=2&skin=amp&device=smartphone&display=b

「ハグしろ」ではなく「はぐしちゃお」強要ではなく自発。

やらされるものというイメージの強い「ハグ」ではなく自分でもできそうと感じられるような柔らかイメージの「はぐ」

自発的に「はぐ」をするように仕向ける諜報機関特性がはっきりと表れている。

以上の根拠からも分かるように、この「はぐしちゃお」は明らかに西洋諜報機関によるハグ文化推進を睨んだプロパガンダである。

彼はこのハグ文化推進を足掛かりにして、様々な西洋不衛生文化を浸透させ、日本人の衛生意識低下を目論んでいたのである。

幸運なことにこの忌々しきプロパガンダソング「はぐしちゃお」はわずか2年でドラえもんのオープニング曲の座を失い、日本にハグ文化が大きく広まることは無かった。

一見自然発生のように見える流行や習慣の登場の裏には様々な機関の思惑が存在するということが世の中には多々あるのだ。

ウメハラが止まらない

―ウメハラが止まらない―

きっかけは彼の歩き旅であった。

数日前 彼は「吉野家の桜が見たい」と言い残し横浜を去った。

つい最近まで「一人旅はさみしい」と語っていた彼が孤独の極致である歩き旅を続けることができるのだろうか。

「もって2日だろう」

僕は旅の継続を全く信じていなかった。

だがしかし

今回の彼は違った。

彼は横浜を離れてからの5日間、べらべらとインスタポエムを止めずに歩き続け、なんと静岡まで達したのだ。

早稲田大学から早稲田駅までの距離を歩くことすら嫌がり、常に自転車に乗っていたあの彼が。

僕は目を疑った。

そしてそれと同時に何か裏があるのではないかという勘が働いた。

彼を歩き中毒に陥らせる強力な動機がきっとある。

僕は彼の歩き動機を考えた。

頭の中にある彼の特徴を浮かべ続けること一瞬。

僕はついに1つの答えにたどり着いた。

 承認欲求

彼は日夜インスタグラムで自らの輝く瞬間を投稿し、承認欲求を満たしている。

かく言う僕も彼のインスタポエムのファンの1人である。

しかし今回の歩き旅による不快感はインスタ投稿によって得られる承認快感を上回ったに違いない。

となるのと彼はインスタグラムとは別の手段で承認快感を得なければならない。

歩き続けることで承認を得られるものとは?

WERUNだ。

WERUNとはwechat内にあるアプリの1つで、登録したユーザーの1日の歩行数を携帯の揺れた回数から計数し、毎晩22時30分にこのようにランキング形式で表示してくれるものである。

そしてその日一番歩いた者のプロフィール画像が全てのユーザーの画面に表示される。

北京大学にて多くの友人を作った彼にとって、ランキングの頂点に立ち続けるというのはこの上ない快感に違いない。

事実ここ数日彼は頂点を独占し、「友情、努力、勝利」という歪んだ価値観を強要し快感を覚えていた。

価値観の強要を受けたくなければ歩け。

恐るべき2重ハラスメントである。

流石はハラスメントの権化。

彼はさらなる強要を身につけるために読書をしていたのか。

コロナウイルスの蔓延により外出自粛の風潮が広がる中でのこのダブルウメハラは悪質極まりない。

外出すれば自粛ハラスメントを受け、家に籠ればウメハラを受ける。

そんな彼の友人たちの悲痛な現実は想像に難くない。

これ以上ウメハラを放置するわけにはいかない。

僕が1位を奪い返して彼の横暴を止める。

そう決意した時既に僕の右手は携帯を掴み、上下に降り始めていた。

今回のウメハラ討伐にあたって僕は考えた作戦は2つだ。

・携帯フリフリ

・歩く

ここ数日ウメハラは1日平均45000歩という脅威の強要力を見せていた。

彼の強要を打ち破るには少なくとも50000歩は計上しなければならない。

僕のこれまでの最高記録はマカオに行った時の24000歩だ。

この日僕は朝7時に起きて何度もマカオ半島を往復していた。

間違いなくあの日は去年一番歩いた日であった。

そんな僕の渾身の歩きハラスメントを難なく越えるウメハラの45000歩。

この記録を純粋な歩きのみで越えるのは不可能のように思えた。

そこで僕が採用したのが作戦1「携帯フリフリ」である。

先述のようにWERUNは携帯が揺れた数を元に歩数を数えている。

このWERUNの特徴を考慮すれば携帯フリフリは間違いなく有効である。

まず携帯フリフリで25000歩を稼ぐ。

僕は例のごとく朝7時に起きて携帯フリフリを始めた。

始めて数分。僕はすぐさまこの作戦の欠点に気づいた。

 退屈

携帯を振るということは携帯を弄れないということである。

あらゆるコンテンツを携帯の中に閉じ込めている現代っ子にとって、画面を見ることのできない携帯フリフリはただ腕の筋力をいたずらに消費する退屈の極みである。

携帯がないならパソコンを使えばいいじゃない。

マリー・カイヤントワネット

携帯のネットがダメならパソコンだ。

僕はパソコンを起動し、最近はまっているバブル期ドラマ「東京ラブストーリー」を観始めた。

ドラマの1話約50分を1セット、目は画面、手は携帯。

これなら退屈もしのぎつつ歩数も稼げる。

僕はこの妙案への期待からハイペースで携帯を振り続け、手早く2セットを消化した。

「2時間携帯を振ったのだからそこそこ記録は伸びているだろう。」

僕は期待に胸を膨らませ、そっと携帯を開いた。

4022

よしよし。良いペースだ。

僕はウメハラと大差のないペースで歩数を稼いでいることに安堵した。

この小さな安堵は慣れない早起きをした僕に強烈な眠気を与えるのに十分であった。 

僕は眠りの世界に堕ちた。

この僕のわずかな隙をウメハラが見逃すはずがなかった。

再び目を覚ました時、僕は目を疑った。

ウメハラの記録が20000歩に伸びていたのだ。

他人が休んでいる時にも決してハラスメントを弛めない。

彼がウメハラとよばれる所以がここに詰まっているような気がした。

僕も慌てて2セットをこなし歩数を稼いだが、差が縮まることはなかった。

「もう歩くしかない」

ウメハラの圧倒的歩きハラスメントには小手先の携帯フリフリなど通用しない。

目には目を、歯には歯を、歩には歩を。

僕は目的地を家から約10km離れた温泉に設定し、歩き旅を始めた。

家から温泉までの道は9年前のちょうどこの時期、中学入学前に小学生最後として友達と自転車旅をした思い出の道だった。

思い出のある道を歩くのは意外に楽しく、僕はしばし戦いを忘れ回顧に没頭した。

歩く僕

歩き始めて1時間。

そろそろ回顧する思い出も無くなってきたので、僕は音楽を聴こうとポケットからイヤフォンを取り出そうとした。

ない

出かける前にポケットに入れたイヤフォンが無いのだ。

バッグの中を探しても無い。

退屈という敵が再び僕の前に立ちはだかろうとしていた。

歌え。

イヤフォンが無いときいつもどうしてたんだ。

イヤフォンなんてもんを知らなかった時、僕たちはどうやって音楽を楽しんでいたんだ。

歌だ。僕たちには歌がある。

コロナ騒ぎで道には人は少ない。

マッチョ マッチョ ビバマッチョ♪

僕の胸の中でフォーリンラブ♪

僕は歌った。

そんなこんなで約2時間。

ついに目的地の温泉にたどり着いた。

既に日は落ち、あたりの人影も一段と減っていた。

計画ではここで一度リフレッシュをして帰りの歩きに備えるつもりであった。

携帯を確認した。

ウメハラ  44000歩 僕 18000歩

ウメハラは僕の2時間を嘲笑うかのごとく、さらに歩数を伸ばしていた。

22:30の結果発表を考慮すれば、ここで温泉など入っている場合ではないのは火を見るより明らかだ。

僕は温泉の写真だけ撮ってすぐさま来た道を戻るように再び歩き始めた。

旅の一番の憂鬱は帰り道なのは当然だが、歩き旅の憂鬱度は他にも増してひどい。

行きにコンテンツを使い果たした僕にとって帰り道は「無」に他ならかった。

退屈を紛らわすために「ウヒョー」と奇声をあげたり、急にダッシュしたりと様々な策をとったが、どれも士気を上げるには至らなかった。

なぜ僕はこんなことをしているのか

ウメハラだ。全てはウメハラが悪い。

奴が歩きハラスメントを通じて世界中の人々を苦しめているからいけないのだ。

奴は既に4日連続で頂点を独占している。

5日連続のかかる今日頂点を獲得すれば、必ず強大なハラスメントを仕掛けてくるに違いない。

何としても止める。止める。止める。

苦しい時に力をくれるのはいつだって憎しみだ。

僕はウメハラへの憎しみをパワーに変え、必死に歩みを進めた。

そしてスタートしてから4時間、ついに僕は温泉-家間の往復を達成した。

流石にウメハラとの歩数差も縮まっているだろう。

なぜだ。

僕は目を疑った。

なぜまだ17000歩もあるのか。

時刻は既に21時に近づいていた。

これらの事実は僕の達成感を大いにへし折った。

しかしどれだけ差がついてもやることはただひとつだ。

「歩く」

僕は自宅付近の1週300mのグラウンドに繰り出し、再び歩き始めた。

慣れない長歩きは日頃運動不足な僕の体に容赦なく影響を与えた。

足の皮は剥がれ、節々が悲鳴を挙げていた。

こういった苦難の時、いったい何が一番の活力になるのか。

憎しみはもちろん力になるが、痛みが合わさった時は苛立ちに繋がる。

僕はもう一度ウメハラによる歩きハラスメントの根底にあるものが何か考えた。

彼の根底にあるのはやはり「承認」だ。

頂点を獲り自らの存在を誇示したいという承認欲求。

それこそが彼の底力の源だ。

僕も彼に習って「承認」をモチベーションにしよう。

「承認」

「承認」

「承認」

僕はこの承認フレーズを呪文のように唱え、有心で歩き続けた。

途中何度も走ったほうが良いのではないかと感じたが、僕の承認欲求はそこまでのパワーはくれなかった。

10週ほど歩いた頃だっただろうか。

結果発表の22時30分がやってきた。

敗北

負けた。

結局最後まで差を縮めることはできなかった。

僕にとってこの日はただ5時間歩いただけの日となった。

WERUNでの頂点をモチベーションに5日連続で30000歩以上歩いたウメハラ。

かたやたった1日すらウメハラを抜くこともできなかった僕。

この間には12000歩以上の差があると僕は感じた。

世間では馬鹿にされがちな「承認欲求」という言葉であるが、「認められたい」という根源的な欲求は時にとてもつもないパワーを発揮することがある。

どこかの秘密結社が時代は貨幣経済社会から人から評価を得る人間が豊かさを感じるという評価経済社会に変わると言っていたが、あながち間違いではないかもしれない。

事実ウメハラは5日連続チャンピオンを獲ったことをタイムラインに掲げ、多くの称賛を集めていた。

いかにせよ僕の承認欲求ではウメハラを止めることはできなかった。

いつかさらなる承認欲求者がウメハラを止めることを願っている。


僕はワセダに失望した

先日 早稲田大学の学部事務所からこんなメールが届いた。

呼び出し。

どうやら先日僕たちが大学内で許可無くプールをしたことが原因のようだった。

僕の呼び出しに先立って一緒にプールを企画を行った教育学部のこんりんの呼び出しが昨日行われた。

彼の語った呼び出し内容は衝撃的だった。

彼の話によると呼び出しは彼と教育学部の教務主任、書記の3人で行われたそうだ。

こんりんはまず教務主任に今回のプール企画が早稲田から1トン増やす会の活動の一環であることを説明し、プール企画に至るまでの活動を説明した。

すると教務主任はこう語ったそうだ。

「くだらない」「お前らの活動は無意味だ」

ちゃんこの炊き出しも武蔵野アブラ學会とのコラボもそして今回のプール企画も

教務主任は僕らの活動を全て「無意味、くだらない」ものとして切り捨てたのだ。

早稲田大学のホームページにはこんな言葉が記載されている。

「多様性重視と個性の尊重は早稲田の伝統」

学生の活動を否定しておいて

なにが多様性重視だ なにが個性の尊重だ。

今回の問題の争点は僕たちが許可をとらずにプールを行ったことであって、企画内容そのものを否定される筋合いはどこにもないはずだ。

もし仮に僕たちがプールの際に道行く人を片っ端からプールに突き飛ばしたりといった他人へ迷惑をかける行為や法に触れる行為を行っていたならまだしも、

僕たちは今回そのような行動はしていない。

確かに今回は大学に許可を取らなかった点は僕たちの落ち度であり、反省すべき点である。

しかし僕たちはこれまで「他人に迷惑をかけない」という理念のもと活動を行ってきた。

実際に今回の一連の企画において僕たちの活動が社会に大きな損害を与えているなどといった主張はない。

にもかかわらず、教務主任は僕たちの活動を「無意味でくだらない」と完全に否定した。

僕は早稲田から1トン増やす会を立ち上げてからの2週間本当に楽しかった。

どんな企画がおもしろいか友達と話し合ったり、実際に企画に集まってくれた人たちが笑っているのを見たりする時間は本当に楽しい瞬間だったし、

自分の好きなことは「人を楽しませること」だということを改めて確認した2週間でもあった。

そんな僕たちが充実した時間を過ごした2週間のどこが「無意味でくだらない」というのか。

さらに教務主任はこんりんにこんな言葉もかけたという

「こんなくだらないことをしてないでもっと大学生らしく行動しなさい」

大学生らしさってなんなんだよ。

僕はいま「人に迷惑をかけない」といった最低限のルールのもと、自分が「楽しい」と思ったことをしている。

大学内で「楽しい」と思ったことをやって学生生活を送っている学生のどこが大学生らしくないというのか。

学生の楽しみを否定して大学生らしさを奪っているのは誰なのか。

自分たちの価値観で勝手に学生の活動を「無意味」と否定するのが早稲田大学が伝統と主張する「個性の尊重」なのか。

大学職員たちの凝り固まった価値観でしか学生の行動を判断できないなら「多様性重視」 だとか「個性の尊重」だなんて言葉を掲げるのはやめろ。

とにかく僕は今回の教育学部の教務主任の対応には深く失望した。

1週間後には文学部の教務主任からの僕への呼び出しが行われる。

今回と同じような対応が文学部で行われないことを心から願っている

僕は人を叩けない

みなさんは僕の大学に最近こんな団体ができたことを知っているだろうか。

「早稲田から1トン減らす会」

「1トン減らす」というキャッチコピーのもと、大学内でダイエットに取り組みたい人たちを集める団体らしい。

僕はこの団体に激しい憤りを覚えた。

体重のせいで空気まで重くなっているとかいう謎理論を振りかざしダイエットを強要するエゴイズム、

「ダイエットに励む人を集める」という名目で興味を持った女性を集めて「そんなに太ってないよ~」とか言ってワンちゃん狙おうとする薄汚い魂胆。

僕は元々やせ形で特に夏は食欲が無くなり、体重が落ちやすい。

世の中僕のような元々やせ形で体重が減りやすい人間もいるのになぜここまで体重を減らす人間を持て囃そうとするのか。

みんながみんなダイエットしたいと思っている訳じゃないのになぜそこまでダイエットを強要するのか。

百歩譲ってダイエットがしたいなら、「早稲田」とかいう多数を巻き込もうとする単語を使わずに自分たちだけでやってれば良いのではないか。

僕は怒りに震え、すぐさま禁酒会のごとく「早稲田から1トン増やす会」を設立して、この減量ハラスメント団体をぶっ叩こうと考えた。

しかし僕にはできなかった

僕の「早稲田から1トン減らす会」への感情は必ずしも怒りだけという訳ではなかった。

もし感情のパーセンテージを表すなら90%は怒りやいらだちといったネガティブな感情だったかもしれない。

しかし残りの10%ほどの中に彼らへの尊敬の感情が確かにあった。

「早稲田を面白くしたい」という思いから団体を立ち上げる勇気。

今までなかった「ダイエット」を団体の目的とする斬新な企画力。

純粋に彼らの事を「すごい」と思っている自分もそこにはいた。

人間誰しも相手の事を完全に否定するタイミングというのは自分が100%正しいと確信している時だ。

僕はこの時自分が彼らを叩くという行為が100%自分の気持ちに従った行動であるかどうか確信が持てなかった。

だから僕は彼らを叩けなかった

僕は最近このような事が多くある。

Twitterのタイムラインには様々な人々の様々な考えが次々と僕を襲ってくる。

「夢追い人」の野心的なツイート。

「ネタツイッタラー」たちの使い古されたネタのネタツイート

「インフルエンサー」たちのポジティブ思考を強要する煽りツイート

相反する内容ばかりが流れてくるタイムラインでいちいち彼らのツイートに影響されてたら自分が何なのか分からなくなる。

そこで僕がとる方法は「否定」だ。

とりあえず流れてきた内容全てを否定的な態度で消化する。

「夢追い人」には「結局就活のネタ作りでしょ」と

「ネタツイッタラー」には「いいね欲しさの底が浅い承認欲求でしょ」と

「インフルエンサー」には「お前がインフルエンサーやれてるのはお前に影響されない奴のおかげだよ」と

はっきり言って支離滅裂だ。全てを否定すれば倫理的に無理が起きるのは当たり前だ。

でも仕方がない。誰かの意見を100%肯定してそれに従って行動してたらもはや僕は誰なのか分からなくなる。

「否定」は僕を守ってくれる唯一の道具なのだ。

けれども僕はここで彼らのツイートを批判しようとは全く思わない。

確かに僕は彼らのツイートを批判的に捉えている。しかし一方で僕はツイートをした彼らに尊敬心を抱いているのもまた事実だ。

「夢追い人」には「自分の夢を具体化してそれを周りに宣言する覚悟」 

「ネタツイッタラー」には「常にアンテナを張ってネタを収集する察知力」

「インフルエンサー」には 「周りに相手にされないことを恐れずに、自分の考えを語る勇気」

どれも僕には無いものだ

僕は彼らを否定する反面、僕に無いものを持つ彼らを尊敬している。

僕は100%彼らに批判的な訳ではない。

だから僕は彼らを叩けない。

否定とはリスクのある行為だ。

初対面の人間からいきなり自分の行動を否定されれば誰しも不快な気分になる。

一方で称賛は相手の気分を害することは少ない。

だから僕を含めて多くの人は相手に対する否定的な側面は無視して、尊敬できる側面に目を向けて無難に褒める。

否定的なことばかり言っている人間は「ネガティブ」「すぐ否定から入る」といって煙たがられる。

ネットの掲示板を見ればレスバトルだらけでも街に出ればケンカをしている人は少ないのはみんな否定的な側面を隠しているからなんだと思う。

「尊敬」「否定」「誇らしさ」「嫉妬」

人が人に対して抱く感情は本当に多種多様だ。

梅雨のジメジメした雰囲気に誘われてふとそんなことを考えてしまった。


近い将来 恐ろしい税金が日本を席巻する

所得税 相続税 酒税 たばこ税 関税

この世にはありとあらゆる税金が存在する。

税金の種類は年々増え続け、

今では日本は世界2位の重税国とも呼ばれている。

これらの税金の中には特定の市町村に住居をかまえることで発生する住民税や、

食品を購入することで発生する消費税といった人間生活に欠かせない衣食住に関わる税金も存在する。

僕はこうした見境のない重税化の進む日本において、いつかある恐ろしい税金が課される日が来るのではないかと危惧している。

うんこ税だ。

その名の通りうんこ税はうんこをした者に課される税金である。

この図でもわかるように、うんこを処理するためには莫大な時間とお金がかかる。

にもかかわらずこの国のうんこ製造機たちは毎日勤勉に製糞をしている。

つまり現在この国では無償でうんこ処理が行われているのだ。

この状況をエリートうんこ製造機集団たちが見逃すはずがない。

彼らはいつか日本が財政的に困難状況に陥ったとき、この圧倒的に損をしているうんこ処理業界への改革に目をつけるだろう。

一般的に日本製のうんこ製造機たちによる1日の生糞量は200gとされている。http://www.eiken.pref.kanagawa.jp/014_kids/14_infection_013.htm

これを日本の人口1億7000万人でかけると

1日に約25400トンのうんこが製造されていることになる。

1日2540台もの10トンうんこトラックを作り出せるのだ。

冒頭にも述べたように、うんこを処理するためには莫大な金がかかる。

うんこが農業用肥料に製糞されていた時代ならともかく、

一部の愛好者を除き、全く活用されることなく惰性で製糞されるうんこたちは明らかに金食い糞だ。

この巨大な赤字を出しているうんこ処理産業を改革するには、

うんこが有効活用されていたという過去の栄光にすがり、いまなお無意味にうんこを製糞し続けるうんこ製造機たちに税金を課して、

彼らのケツに火をつけるしかないないだろう。

うんこに一定の税金をかければ、

「無理な食生活をしてもうんこすれば解決♪」なんていう甘い考えも減り、結果的に国民の食生活も改善し、医療費の軽減にもつながる。

以下がうんこ税導入のメリットだ。

1 莫大な赤字を出しているうんこ処理業界の財政健全化。

2 うんこ頼みの無謀な食生活減少による医療費軽減。

3 本当に必要な時のみにうんこが製造されることでうんこの大幅な品質向上。

このようにうんこ税の導入によるメリットには枚挙にいとまがない。

一部には「いやいや うんこしないと人間死んじゃうんだからさすがにうんこ税はないでしょ。」という楽観的な意見もあるかもしれない。

しかし僕が最初に紹介した実際に存在する税金たちを見て欲しい。

これらの中の消費税や住民税は直接人命に関わる分野なのにも関わらず税金がかけられている。

自分たちは素晴らしいうんこを製造していると自糞しているエリートうんこ製造機たちはいくら人命に関わる分野であろうが、金になると分かれば容赦なく税金をかける。

今回紹介したうんこ税のメリットを考慮すれば、そう遠くない将来に彼らがうんこ税を作り出す可能性を水に流すことはできない。

いつか現代を税の心配をすることなく、うんこ製造に勤しめる幸せな時代だったと表現する時代がきっと来る。

僕たちはこの当たり前の幸せを噛みしめて

今日も勤勉に踏ん張り続けなければならないのではないか?

真面目なおじさんが報われる世界になって欲しい。

先日 僕は21歳の誕生日を迎えた。

誕生日は誕生日でなかなか素晴らしい出来事がたくさんあったのだが、

どれもこれも素晴らしすぎて、

ブログ向きではないので、

今回は全て割愛させていただく。

ではなぜ今回 わざわざ誕生日であったことを報告したのかというと、

誕生日を迎えたことによってある恐ろしい事実が浮かびあがっていたことに気づいたからだ。

それは誕生日を迎えたことでまたひとつ

 「おじさん」に近づいてしまったということだ。

世間の「おじさん」への風当たりは常軌を逸するほど冷たい。

最も公正とされるGoogleで「おじさん」や「中年男性」と検索するとこうなる。

ひどい。ひどすぎる。

ちなみにおばさんだとこうだ。

何という違い。

この国では「おじさん」というのは存在しているだけで場の空気を乱す害虫として扱われるのだ。

僕はこれらの記事を全て読んだ。

もちろん 「おじさん」擁護派の僕ですら

気持ち悪いと思う内容もいくつかあったが、

その多くは男子大学生たちがやっていてもおかしくないような内容だった。

確かに近年は下記のような「おじさん」によるデリカシーのない発言が世間を賑わすことが多い。

https://twitter.com/wonna57716011/status/1120340900343734272?s=19

実際 僕もこうした「おじさん」たちの時代遅れな発言や思考はもちろん批判されるべきだと思う。

しかしここで納得いかないのが、

こうした一部の「狂ったおじさん」たちのせいで、

最初の写真のような歪んだ「おじさん」イメージが作られてしまうことだ。

「おじさん」にもいろんな種類がある。

こうした「狂ったおじさん」たちが社会を賑わすということは裏を返せば、

大多数の「おじさん」は家族や自分のために真面目に働いて生きているということだ。

そうした「真面目なおじさん」たちは、

「狂ったおじさん」たちのせいで作られたイメージのせいで、

真面目に生きているのにも関わらず、

常に肩身の狭い思いをしている。

狂った「おじさん」の中には、

真面目に生きていても報われない「おじさん」の宿命にやけになって内なる狂気を解き放った者もいるかもしれない。

もちろん元をたどれば、全て「狂ったおじさん」が悪いし、

こいつらが自分の年をわきまえて行動すればいいだけの話ではある。

ただ、これまでどの年代にも「狂ったおじさん」が一定数いたことを考慮すると、

「狂ったおじさん」そのものがいなくなるということはないだろう。

そういった時に「おじさん」そのものを忌避するのではなくて、

「おじさん」一人一人を正当に評価する世の中になるべきだと思う。

世の中まだまだ「真面目なおじさん」たちを中心に動いている。

いくら男性中心の社会を批判したいからって、そうした「真面目なおじさん」たちまで叩くのは明らかに間違ってると思う。

僕が「おじさん」になるまでに、少しでも「おじさん」の地位が上がってますように。