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ドイツ・デュッセルドルフ 〜入国審査と巨大ケバブ〜

アムステルダムを離れた僕が次に向かった地はドイツ・デュッセルドルフだった。

ドイツの西側に位置するデュッセルドルフはアムステルダムからバスで4時間ほどと非常にアクセスが良く、ドイツ旅を始めるうえで絶好の都市であると感じた。

一方で僕はドイツへと移動に関して若干の不安を抱いていた。

というのもドイツが9/5から日本を「コロナウィルスハイリスク国」に指定したからだ。

詳細を確認すると、入国前10日以内にハイリスク国に滞在していることが発覚した場合、自己隔離が必要とのことだった。

僕自身も渡航前から再三再四情報を確認し続けていたが、僕が空の世界に隔離されていた間に発表がなされてしまった。

僕の旅はオランダで終了してしまうのか。まだ始まって3日も経ていないのに。

オランダの雲ひとつない青空とは対照的に僕の旅に一群の暗雲の立ち込み始めた。

まあどうなったて良いだろ。突飛なことは全てブログに書いてしまえばいい。

「不安に駆られても何の意味も無い。予約は取ったのでとりあえずバスに乗ろう。」

僕は悪を引き起こそうと奔走する自らの思考を放棄し、足早にバスに乗り込んだ。

バスはロッテルダムやらネイメーヘンやら様々なオランダの都市を寄りながら、様々な不安で揺れ動く僕の思考のように曲線的な線を描いて進んでいった。

そして迫る国境線。

ここで降ろされたら”旅”が始まるな。

僕は不安と一抹のワクワク感を抱え、バスに揺られていた

そんな僕の焦燥をよそにバスは何者にも遮られることなくあっさりと国境線を突破した。

僕に起きた変化といえば、オランダで買ったsimカードが全く繋がらなくなったぐらいであった。

バス停に何かがあるのか。国境線を超え、安心した東洋人を絶望の淵に叩き落とす何かが。

僕の疑心は大いに膨らみを続けていたが、バスもまた決められた道順をひたすらに走り続け、ついにデュッセルドルフに到着した。

停留所が数個置かれただけのバス停に到着すると、バスのドアが一斉に開放された。人々は我先にと荷物を背負い素早くバスを降り、各方向に散っていった。

そこに待っているものは何もなかった。

何かが待っていると勝手に妄信していた僕は呆気にとられた。

人間は得てして予期せぬ自由に弱い。

僕はデュッセルドルフに着いてからのことをほとんど想定していなかった。

人々に押されひとまずバスを出た僕ができることは限られていた。

宿の名前は? 所在地は? 腹減ったな飯は?

僕は適当に街を歩きながら、一旦フリーズした脳を再活動させ、次の行程を考えた。

しかし何か物事を考えるには僕の脳は疲弊し過ぎていたし、どこかへ足を延ばすには僕の腹は減りすぎていた。

幸いなことにバス停は食事処も多い市の中心にあった。

ただ適当に歩くだけで様々な食事処が僕の目に飛び込んでくる

その中で僕の目を最も引いた食べ物があった。

ケバブ

そうかつて僕が漢のロマンを追い求め作り上げた食事

あの時も全く焼けることのないケバブ肉を見て呆気にとられていたものだった。

肉だ。デカい肉は全てを解決する。

例のごとくこのレストランにも巨大なケバブ肉が鎮座していた。

僕は迷わずケバブサンドを注文した。

これまた例のごとくトルコ系の従業員は慣れた手付きで肉を切り、野菜などと共にパンへぶち込んだ。

そして例に外れた無茶苦茶なサイズのケバブサンドが僕の前に現れた。

3.5ユーロ(440円)異常に安い

デカい。異常にデカい。もはやサンドできていない。呆気にとられた思考を取り戻すために食べるケバブを見て僕は再び呆気にとられてしまった。

もう呆気にとられている暇はないんだ。目の前に飯があったらやることは一つ。

食う。

僕は服や顔が汚れるハイリスクを恐れずにひたすらかぶりついた。

旨い 旨い。

僕の脳腹へ急速にエネルギーが溜まっていった。

そうだ僕はドイツに入国したんだ。

もう僕は自由の身なんだ。

エネルギーを取り戻した僕の脳はあらゆる事実を素早く処理した。

瞬く間にケバブを平らげた僕は足早に宿へと向かった。

ドイツ旅はまだ始まったばかりだ。続く

2年の月日で変わったのと変わらないもの

6月某日 都内近郊某大学説明会にて

「困っている学生を助けることができるのが大学職員の一番の魅力です。」

彼は親の敵のごとく忌避していたスーツを羽織り、淀みなく言い切った。

2019年 夏

僕たちは尖りに尖っていた。

「早稲田から1トン増やす会」を作り、ちゃんこ配布企画、ハチミツパン配布企画、そしてプール企画、ありとあらゆる企画を実行した。

新たな企画を生み出し続ける楽しさは何ものにも変えがたい経験であったし、学生生活を振り返った時、真っ先に思い浮かぶ場面の1つであろう。

しかしそんな僕たちのささやかな楽しさに水を差し続けていた存在がいた。

そう 他でもない大学職員だ。

バナナ配布企画では職員室呼び出し、ちゃんこ配布企画では警備員を派遣し撤収強要、極めつけはプール企画での人格否定。 

彼らはことあるごとに僕たちの前に現れ、楽しさを奪っていった。

「大学職員はつまらん奴ら」「あんな風になったら終わりだ」

僕たちはそんな恨み口を言っては大学職員に妨害された憎しみを晴らしていた。 

「あいつらがいなければ」そんな感情を抱いたことも一度や二度ではなかった。

当時の僕たちにとって大学職員は僕たちを困らせる「天敵」であったのだ。

それからいくぶん月日が経った。

どのような心境の変化があったか定かではないが彼は大学職員になった。

そしてこの瞬間 彼は未来の「天敵候補」たちに向けて大学職員の魅力を語っている。

あの時、恨み、憎しみ、蔑んだ「大学職員」に対して。

面白い。最高に意味不明だ。

彼の2年がかりの壮大なギャグは僕の笑いのツボを破壊するに十分なものであった。

いま目の前で「大学職員」の魅力を話す彼の姿と2年前「天敵」に向けて憎悪を向ける彼の姿が交互に現れる。

ダメだ。面白すぎる。

いまこの世界の誰よりも意味不明で面白いのは君だ。

#絶対に笑ってはいけない説明会

僕は彼のあまりの変化に対して心の中で大いに爆笑した。

ただその一方で 

ほんの少しだけ「さみしさ」を感じた。

天敵への憎しみを共有し、「無意味でくだらない」ことへ全力投球したあの時の彼といまの彼は違う。

1人の男として社会で生き抜くために過去の想いには触れず、大学職員の仕事を楽しんでいる。

いや彼だけじゃない。僕もだ。

以前の僕だったら天敵の魅力を雄弁に語る彼の姿に面白さを感じることはないだろう。

「そんなんはつまんねーよ」と一刀両断して、「AV出ろよ」とか面白いことの実現を強要しているだろう。

でもいまの僕は彼の変わり身っぷりに面白さを感じ、ゲラゲラ笑っている。

2年という短い月日の中で僕たちは変わった。

もう互いに社会に一泡吹かせようと結束することは無いかもしれない。

ただ僕たちの関係性は今も続いている。

今後も互いに変わり続けていくだろう。

それでも関係性だけは切れないなら良いんじゃないかと僕は思っている。

スーパーパンプマックスの使い方を考える その1

世の中には 漢としての血が滾る言葉がある。

スーパーパンプマックス

話は3月上旬に遡る。

僕は友人のこんりんと共にサウナの聖地「しきじ」を訪れた。

食事→サウナ→電車内うたた寝という至って平和な旅の終わり、彼は衝撃の告白をした。

「俺 薬物中毒なんだよね」

聞くところによると彼は筋肉増強を目指すがあまり、多くのサプリメント摂取に依存した生活を送るようになったという。

そんな彼が必死に購入欲望を抑えているサプリメントがあった。

スーパーパンプマックス

「スーパー」「パンプ」「マックス」強そうな言葉をこれでもかと並べた「ぼくのかんがえたさいきょうサプリメント」的ネーミング。

「パンプ感」という日常生活ではまず目にしないであろう宣伝文句。

どれも僕をスーパーパンプマックスの虜にするに十分な要素であった。

いったいこいつは僕の体にどんな革命を起こしてくれるのか?

効果を知りたきゃ買え。

僕はスーパーパンプマックスを購入した。

購入から1週間ほどたったある日、スーパーパンプマックスは唐突にやってきた。

レッド&ブルーという食品とは思えない毒々しいコントラスト、中央に堂々と鎮座する「スーパーパンプマックス」の文字。

宣伝写真をも上回る圧倒的な存在感だ。

流石「スーパーパンプマックス」期待を裏切らない。

僕はスーパーパンプマックスの素晴らしい容貌に感動し、撮影を繰り返した。

「さてこいつをどう使おうか」

「スーパーパンプマックス」を使用したトレーニーによると、スーパーパンプマックスには以下のような効果があるようだった。

スーパーパンプマックスの効能は?

・超パンプするぜ!

・集中力があっぷして筋トレしまくれるぜ!

・筋肉痛と疲労もなくなるぜ!

・いやっほぉぉぉ!

彼はトレーニング前に飲むことを推奨していたが、僕はあいにく トレーニーでもなんでもないただのはいぐ~だ。

トレーニング前に使うという概念は存在しない。

それよりもこれだけ素晴らしい効能がある「スーパーパンプマックス」をトレーニングだけにしか使わないというのは脳筋にもほどがある。

トレーニング以外にも何か「スーパーパンプマックス」が役立つ瞬間があるはずだ。

世界中の人々が「スーパーパンプマックス」を愛飲する世の中を作るために、「スーパーパンプマックス」の素晴らしい使い方を考案しよう。

まず僕はスーパーパンプマックスの「集中力向上」という効果に注目した。

「集中力向上」はパワーだけではなくインテリジェンスにも応用できるのではないか。

短い時間で次々と問題が現れる性質ゆえに、多くの集中力を必要とするWEBテスト。

その難しさゆえに悩める就活生も多いはずだ。

「スーパーパンプマックス」によって集中力が高まり、WEBテストで力を発揮できるなら、就活生にとって「スーパーパンプマックス」は欠かせないものになるはずだ。

僕はまずWEBテスト前に「スーパーパンプマックス」を飲むことにした。

聞くところによると「スーパーパンプマックス」はトレーニング30分前に最も力を発揮するらしい。

僕は推奨通りWEBテスト30分前に「スーパーパンプマックス」を飲んだ。

味はグレープフルーツの苦みだけを濃縮したような味で口が裂けても、美味しいとは言えない。

しかし効果さえあれば美味しさなど関係ないことは既にプロテインが証明している。

大事なのは効果だ。

飲んでから10分ほどで僕の体に変化が現れ始めた。

「心臓のパンプが速い」

凄まじい心臓の鼓動。ここまでパンプしているのは「人妻パラダイス」前にマムシドリンクを飲んで以来だ。

心臓のパンプが上がるにつれて、やる気のパンプも上がってきた。

WEBテストやりたい WEBテストやりたい 

人生でこれほどWEBテストを受けたくなったのは初めてだろう。

なんだか今なら凄い点数がとれる気がする。

僕は30分をも待たずに、自室の机に飛び乗り、WEBテストを開始した。

しかしテスト開始直後、重大な欠陥に気づいた。

「思考がまとまらない」

「スーパーパンプマックス」の効果により、心臓とやる気のパンプは大いに高まったが、その代償に思考力のパンプが大いに下がってしまった。

文章の内容が全く頭に入ってこないし、メモをとる量は増えたが、内容は支離滅裂だった。

唯一効果があるとすれば、クリック力が上がり、確実に選択肢をクリックできるようになったぐらいだろう。

「スーパーパンプマックス」が高めた集中力は思考力を犠牲にして成り立っていたのだ。

思考力を問う課題に「スーパーパンプマックス」は向かない。

では「スーパーパンプマックス」に向いている課題とは何か?

続く

美味さが全て~家系ラーメン論争~

「緊急事態宣言延長」

この宣言は長引くコロナ渦において客足の減少に苦しむ飲食店たちに悲しみと絶望を与えた。

「正直うんざり」「もう終わりだ」といった悲鳴が飲食業界各地から聞こえることも多い。

一方で緊急事態宣言なんてどこ吹く風、強い集客力で繁盛を極め続ける飲食店もある。

吉村家だ。

異常な混みを見せる吉村家(2021/2/6 12:00撮影)

某道家など数多くの悪徳飲食店を世に送り続ける家系ラーメン界隈の元祖として熱狂的な支持を集める一流ラーメン店。

世界屈指のラーメン激戦区横浜駅周辺においても、その唯我独尊とも言わんばかりの圧倒的な人気で頂点に君臨し続けている。

いま横浜で一番人口密度が高い場所といっても過言ではないだろう。 

しかし僕は吉村家徒歩圏に住む横浜市民の一人としてこの異常とも言える人気に疑問を抱き続けていた。

何を隠そう僕は大のアンチ吉村家だ。

理由は簡単。吉村家が大量の悪事を働いていることを知っているからだ。

      吉村家の悪事一覧

  • 行列詐欺(10席以上連続で席が空かないと店に客を入れない)
  • 行列詐欺で道を塞ぐ
  • ライスのお代わりを導入しない
  • 時短要請に応じない
  • 道にスープの残り汁をばらまく

これらの悪事は吉村家が犯した罪のほんのわずかに過ぎない。

行列による待ち時間はもちろんのこと、上記のような悪事を知っている僕は吉村家=悪、横浜を知らない田舎っぺがありがたがる食いもんという認識を持ち、頑なに吉村家を避け続けてきた。

吉村家を避け続ける僕が行くラーメン屋といえば一つ。「横浜家」だ。

異常な空き具合を見せる横浜家(2021/2/6 12:00撮影)

この横浜家は吉村家の真向かいという超良立地にあるのにも関わらず、常に異常な空き具合を見せている。

僕はこれまで22年間横浜に住み続けているが横浜家に行列ができていることはいまだかつて見たことがない。

とはいえ横浜家は決して劣ったラーメン店ではない。むしろ多くの点で吉村家を上回っている。

まずは値段。写真からわかるように横浜家のラーメンは500円だ。これは吉村家のラーメンが720円であることを考慮すると明らかに安い。

安いからといって質素な訳ではない。

横浜家の500円ラーメン

写真でわかるように家系の基本トッピングは網羅しているし、味もあっさり系で悪くはない。

そして何より横浜家はスタンプカードを導入し、リピーターを労うという称賛に値するおもてなし精神を持ち合わせている。

「お客様はわが味の師なり」とか言いながら何のサービスもせず殿様商売を続ける吉村家は大きく異なるのだ。

以上の理由から僕は吉村家はにわか、横浜家こそが至高と自らに言い聞かせ、横浜家に足しげく通い続けていた。

そして発表された緊急事態宣言。世間では密を避けろの大合唱。吉村家の集客力も衰え、ついに横浜家の時代がやってくる。

横浜家の可能性を信じ続けた僕は世間が目を覚ますのを信じて疑わなかった。

結果はどうだろうか。

吉村家は大繁盛、横浜家は閑古鳥。

状況は何も変わらなかった。

何が人々を吉村家に向かわせるのか。

僕はこれまで無意識に吉村家=悪と決めつけていた。しかし本当に悪ならばこれだけ多くの人々が集まるだろうか。

僕は悪という先入観に囚われ、吉村家の魅力を見失っているのではないか。

吉村家の良さを知るためには吉村家に行くしかない。

こうして僕は約5年ぶりに吉村家の行列に並び始めた。

並び始めて数分、吉村家お得意の行列詐欺が始まった。奴らは列が3列になり、隣の店の前にまで達しそうになると、店に客をまとめて入れて、行列解消を図る。

行列が減ったらまた、店の前を行列が埋め尽くすまで、客を店に入れず待つ。

こうして奴らは店の前に一定の行列が出来る状態を保っているのだ。やはり悪の権化 吉村家。

開始早々不快な光景を目の当たりにした僕は並びを止めて目の前に立つ横浜家に入ろうか迷った。

しかし今日は何としても吉村家を食わなければならない。

不快な気持ちは文章で発散せよ。

僕は本ブログを開き吉村家の悪事を書き始めた。

悪事を書くこと約1時間、ようやく行列詐欺も終わり、僕は吉村家店内へ足を踏み入れた。

注文はもちろん硬め、濃いめ、多めだ。

硬め、濃いめ、まずめが出ないよう願うこと数分、ついに吉村家自信の一杯がやってきた。

オーソドックスな家系ラーメンだ。ここまででは横浜家と大きな違いはない。

問題は味だ。若き日の貴重な1時間を捧げる価値はそこにあるのか。

僕は恐る恐る麺をすすった。

うまい うますぎる

スープの濃厚さ、麺の固さ、ほうれん草のシュワシュワ度、全てが最高だ。

僕は先ほど横浜家のラーメンをあっさりしていると評したがそれは間違っていた。単に横浜家は味が薄いだけなんだ。

家系ラーメンとは本来こういう味がするもんなんだ。僕は斜に構えるがあまり家系ラーメン本来の味を忘れていた。

なぜ人は吉村家に並ぶのか。

その答えは一つ 味だ

家系ラーメンの美味さを体感する。ただこのためだけに人々は寒空の中、密をも忘れ並び続けるのだ。

飲食店は味が全てだ。

どれだけ吉村家が悪事を働らこうが、ラーメンの味さえ良ければ人々は吉村家に好評価を下すのだ。

横浜家がどれだけ値下げして、サービスを上げても、味という点で劣れば、吉村家に集客で勝つことはできない。

飲食店にとって一番のサービスとは美味しさなのだ。

僕は飲食店の本質をまざまざと見せつけられたような気がした。

いずれにせよ吉村家が美味しかったのは事実だし、人々から人気を集めているのも事実だ。

僕はこれまでアンチ吉村家を掲げ、「吉村家は大したことない」と語り続けてきたが、認識を変えなければならないだろう。

横浜の武道家と

はいぐ~の小さな野望 ~手作りケバブを堪能したい~

小学校時代、あるキッチンカーに僕の視線は釘付けとなった。

「ドネルケバブ」

実際に当時僕が感動していたケバブカー(現在は閉店)

見たこともない巨大な肉、ケバブサンドとかいう未知の料理、「オニイサン!ケバブドウ?」と声をかけてくる謎のトルコ人。

閉鎖的な極東の島国日本において、ありとあらゆる要素が異質なこのキッチンカーは、僕の注意を引くには十分すぎるものであった。

僕はなけなしのお小遣いから350円を出し、チキンサンドとやらを注文した。

呼び込みの元気な声からうって変わって、そっけない返事をしたトルコ人がこれまた巨大なナイフで肉を削いでいく。

あれで刺されたら即死だろう…

そんなことを考えていると、あっという間にチキンサンドなるものが出来上がり、僕の手に渡った。

サンドイッチ? ナン?

味の検討はほとんどついていなかった。

とりあえず「サンド」という名前を信じてかぶりつく。

うまい!

チキン、ソース、野菜、パン。全てが最高のバランスだった。

こんなうまいもんをどうして今まで食べていなかったのか。

当時小学生の僕は異国から来たケバブなるものに大いに感動した。

あれから10年。

僕が感動した店はいつの間にか無くなり、僕がケバブを食べることも無くなった。

既に僕の生活からケバブは姿を消していた。

しかしあの頃見た巨大な肉の残像は僕の頭の片隅の片隅に残り続けていた。

デカイ肉にはロマンがある。

過酷な就活戦争、卒論戦争を控え、ロマンを失いつつある僕の生活にロマンを取り戻すために。

僕はケバブ作りを決意した。

ケバブ作りに必要なのはやはり肉だ。

さすがはネット社会「ケバブ 肉 購入」と打ち込むだけですぐさまケバブ肉情報が現れた。

凄まじい再現度。

これは間違いなくあの頃見た巨大肉だ。

僕の心は踊った。

しかし巨大な肉には巨大ならではの問題があった。

ケバブ1人前で使う肉量は約80グラムである。

この巨大肉は最低でも10kgからの購入となり、単純計算で125人前のケバブを用意してしまう。

残念なことに僕にはケバブの感動を分かち合える友人は125人もいないし、125人分の胃袋もない。

ケバブ肉購入計画はあえなく立ち消えとなった。

ケバブ肉を購入することができるのはこのご時世でも125人もの人間を集めることができる巨大な人望もしくは125人分の胃袋を持った者だけなのだ。

ケバブ肉の巨大さは人望に比例する。

身の丈に合わない巨大さは虚栄心の肥大と破滅を招くだけだ。

僕は方針を転換し、身の丈にあった巨大さを持った肉を準備した。

僕の現在の人望と胃袋を考慮すればこのサイズの肉は十分身の丈にあった巨大さであろう。

#身の丈にあった人生を

一難去ってまた一難。肉問題を解決した僕に次なる試練がやって来た。

肉の仕込み。

どうやらこのケバブとやらは適当に塩焼きすれば良いという訳ではないらしい。

「ケバブ肉 仕込み」と検索すると難解なレシピが現れた。

クミン? オレガノ? なんやそれ

僕の家はあいにく香辛料専門店ではない。

家にある香辛料といえばせいぜい胡椒ぐらいである。

パイナップル? なんやそれ

僕の家はあいにくフルーツ専門店ではない。

家にあるフルーツといえばせいぜいみかんぐらいである。

玉ねぎ? なんやそれ

僕の家はあいにく青果店ではない。

家にある野菜もいえばせいぜい長ネギぐらいである。

相次ぐ食材の不足。

いかにしてこの不足を補うか。 僕は冷蔵庫をしらみ潰しに探した。

すると冷蔵庫の奥底にまさしくケバブのためとも言える万能調味料があるのを発見した。

ピエトロドレッシング

主原料 オリーブオイル、酢、玉ねぎ、香辛料

完璧だ。ケバブ肉に必要な要素を網羅している。

これからはケバブ汁に名前を変えるべきであろう。

僕はこの万能ケバブ汁とその他もろもろの調味料を混ぜ合わせ、仕込みタレを精製し、肉塊を放り込んだ。

茶ピンク色という全く食欲をそそらないルックスだが、どうやらケバブとやらはこんなもんで良いらしい。

僕はこの茶ピンクの肉塊を冷蔵庫に放り込んだ後、己の肉塊もベッドに放り込んだ。

明くる日の正午。

僕は眠い眼をこすりながら、冷蔵庫から肉塊を取り出した。

ルックスに特に変化は無い。

ただ「一晩浸けた」という行為がなんとなく美味しくなったのではと感じさせる。

あとは火を入れるだけだ。

いやちょっと待てよ

このままただフライパンで焼くだけで良いのか。

僕はロマンを感じるためにケバブを作り始めたのだ。

はいぐ~の小さな野望はただの焼き肉ではない。

僕は忘れかけていた本企画の趣旨を再び思い出した。

しかしフライパン以外でいったい何を使って焼けば良いのか。

ごくごく平凡家庭のはいぐ~家にはもちろん屋台で使われるケバブ焼き器はない。

いやある。

一つだけケバブ焼き器が。

リビングに堂々と鎮座し、日々はいぐ~家を焼き続ける熱き鉄塊。

その熱量たるもの本場のケバブ焼き機にも決して劣らないはずだ。

僕はこの鉄塊の温度を最熱に設定し、ケバブ肉を近づけ、屋台風に回転させた。

熱い。凄まじい熱さ。このまま近づきっぱなしでは僕のほうが先にケバブと化してしまうだろう。

そんなこと言ってはケバブを焼くことはできない、僕はじっと熱に耐え、肉を回し続けた

回すこと10分、僕は自らの熱耐性に限界を感じ、焼けてきていることを信じ、肉を確認した。

                  生

あれだけの熱に曝されたのにも関わらず、ケバブ肉に日が通った痕跡は無し。

#肉回る、されど焼けず

これまでの僕の10分間はいったい何だったのか。

ただストーブの前で肉の着いた箸を回しただけだ。

僕の徒労を嘲笑うウサギ(画面右下)

僕は凄まじい徒労感を抱いた。

しかしそれと同時にあれだけ巨大な肉をこんがりと焼き上げる屋台のケバブ焼き機の火力に恐怖を覚えた。

あの機械の隣で何事もないかのようにケバブ肉を切り落とすトルコ人。

彼らはきっと血の滲むような努力を重ね、ケバブ焼き機の隣で作業ができるくらいの熱耐性を獲得したのだろう。

ケバブロマンというのは僕のような素人が突然獲得できるものではないのだ。

僕は自らの甘さ、弱さを痛感し、そっとストーブを消し、キッチンへ移動した。

ps 手作り肉塊焼きは美味しかった。

サウナ道~男たちの戦場~

サウナ そこは男の戦場。

数々の修羅場をくぐり抜けてきた

屈強な男たちが己の限界に挑戦する…


僕は生まれて22年間、いまだ理解できずにいた問いがあった。

なぜ人はサウナに魅せられるのか。

近年男たちの間でサウナ活動は「サ道」「整う」といった言葉と共に流行を博している。

僕はこの流行に強い疑念を持っていた。

僕は夏場の売りセンで部屋に入った途端、エアコンを最低温度にまで設定する男たちの姿を通じて、いかに男たちが暑さを嫌っているかを知っている。

もちろんサウナは暑い。

ではなぜ暑さを異常に嫌う男たちが暑いサウナを愛好するのか。

また「整う」という言葉も僕にはいまひとつ理解の及ばない概念であった。

一説によると高温のサウナと低温の水風呂を交互に入ることで「整う」という境地に達することができるらしい。

サウナを訪れるのは脂ぎった男たちが多数を占めている。

自らの脂ぎった身体すら整えられないのになぜサウナと水風呂を往復しただけで「整う」のか。

サウナについて考えれば考えるほど謎は深まるばかりだ。

おっさんを制する者が人生を制する

今後社会の荒波をくぐり抜けていくためには、金と権力を持つ男たちのトレンドに敏感になり、友好な関係を築くことが重要だ。

男たちのトレンドを理解する一環として、サウナの良さを知る必要があるかもしれない。

百聞はサウナに如かず。

僕は実際にサウナへ足を運ぶことにした。

早速サウナの情報を調べてみると、なんと横浜市に関東一冷たい水風呂を自称するサウナがあることを発見した。

その名もヨコヤマ・ユーランド鶴見 

スーパー銭湯元年と呼ばれる平成2年にオープンしたといういかにも脂ぎった男たちが集まりそうなサウナである。

僕は行き先を定め、電車とバスを乗り継ぎサウナへ向かった。

(ちなみにヨコヤマユーランドの水風呂が9度なのに対し、池袋かるまるの水風呂は7.6度なので、関東一冷たい水風呂はデマである)

出発から約30分、目的地に到着したという表示を確認し、顔をあげるとそこには若者を拒絶するかのような昭和の香り漂うスーパー銭湯があった。

ここは間違いなく男たちの巣窟だ。

僕はすぐに受け付けを済ませ、脱衣場へと向かった。

脱衣場に若者の姿は無かった。

恐らく平均年齢は50を越えているだろう。

男たちのトレンド検証にはぴったりだ。

そんなことを考えながらあられもない姿になった僕はサウナとの戦闘の準備を整えるために、スーパー銭湯名物の温泉に浸かることにした。

温泉にはぬる湯と熱湯があったが、丁度良い湯は無かった。

温泉に浸かっている間も、僕の視線は常に数々の湯を押し退け中央に鎮座する水風呂と次々と男たちが消えていくサウナに注がれていた。

サウナには何があるのか。

好奇心から来る高揚感は温泉以上に僕の身と心を温めた。

戦闘準備を整えた僕はサウナの扉に手をかけた。

そこには僕の想像を越える光景が広がっていた。

10畳そこらのサウナに脂ぎった男たちが所狭しと座っていた。

その息を切らし、汗を垂れ流す男苦しい様子は北京ゲイサウナを彷彿とさせた。

形の違いはあれサウナで見られる光景はどこも同じなのかもしれない。

僕は唯一空いていた一番熱い釜戸前に座り、男たちを観察した。

びっしょりと汗を流しじっと俯く男、息を切らして天を見上げる男。ひたすらに時計の針を見つめ、出る時間をいまかいまかと待つ男。

実に多様な男たちの姿がそこにはあった。

彼らみな己と戦っていた。

少しでも長くこの場にとどまろうと。

しかしまだ僕には彼らが戦う理由は分からなかった。

何のために? 何が楽しい?

そんな疑問を浮かべているうちにも釜戸の熱線は容赦なく僕を照りつけた。

僕は己の限界を感じ、一旦外へ飛び出した。

「水風呂無くしてサウナ語るべからず」

サウナ前には冷に餓えた男たちを待ち構えるかの如く、青々とした自称関東一冷たい水風呂が鎮座していた。

今までの水風呂はせいぜい15度そこらだった。

9度の水風呂は明らかに未体験ゾーンだ。

僕は近くのシャワーを浴びて水風呂の前に陣取った。

正直全く入りたくなかった。

しかしどこかのウメハラが言っていた「自分が嫌なことをやらなきゃ意味がない」という言葉が僕を奮い立たせた。

そうだ自分が嫌なことをやれ。じゃなきゃ新しい発見はない。

僕は意を決して水風呂に足を踏み入れた。

ヤバい。エグい。

水風呂に入り肩までつかると、僕は全身の筋肉が一気に引き締まるのを感じた。

氷水にいきなりぶちこまれる魚はこんな気分なんだろう。

僕は実の危険を感じ、15秒を経たないうちにすぐさま飛び出し、熱を求めてサウナへ逃げた。

なんだあれは。

サウナに逃げ込んでしばらく立ってもふくらはぎの張り詰めた感覚が残っていた。

あんなのにここの男たちは入り続けているのか。

僕は彼らに尊敬と畏怖の念を覚えた。

水風呂を経たからであろうか。

僕は最初に入った時よりもあまりサウナを熱く感じず、気づいた時には最初の倍近い時間サウナに滞在していた。

僕はここである新しい感情に出会った。

達成感だ。

以前よりも長い時間サウナにいたことから、自らの耐久力向上を実感し、僕は達成感を覚えていた。

ただ座っていただけなのに、自分が成長した感覚があった。

その感覚は僕がここ最近で得られていないものであった。

なんだこれは。

その後僕は意識的にサウナと水風呂を前回よりも長く入るように心掛けた。

10秒 20秒 30秒

3分 5分 7分

時間を意識することで圧倒的に苦しさは増した。

しかし自らの目標時間をクリアした時、確かに達成感と爽快感を得ている僕がいた。

これだ。

この感覚こそが世の男たちを魅了しているんだ。

サウナに訪れる男たちは圧倒的に中年以上が多い。

彼らは生活の中で、日々自らの衰えを感じ続けている。

人生のピークを終え、自らに迫り来る老いを淡々と待つ生活は残酷極まりない。

そんな中、彼らはサウナで「耐える」という単純な行動を通じて、自らの限界を越え、成長を感じる。

彼らにとってサウナは老いを感じ続ける日々に抗い、成長を目指すことのできる数少ない場所なのである。

ここはスーパー銭湯じゃない。

スーパー戦場なんだ。

無情な老いに抗う男たちが己の限界と戦う汗と涙の戦場なんだ。

そのことに気づいた僕の男たちへの印象は完全に変わっていた。

確かに彼らはみな脂ぎった体をしているかもしれない、しかしその体の中には老いてなお成長を目指すのを止めない屈強な精神力があるのだ。

僕にはこの男たちのような屈強な精神力はまだない。

サウナは人を強くする。

サウナの底知れる可能性を知ったサ道体験だった。




ただ空を飛びたかったんだ

僕は9月1日~3日まで関西を旅行した。

腐るほど訪れた気のする関西へ大学4年にもなって何故旅行したか。

それはひとえに「空を飛ぶため」に他ならなかった。

8月はウメハラの月だった。

バンジージャンプ 釣り 飲み会 八ヶ岳 インターン

彼は溢れるバイタリティーを放出し、暴虐の限りを尽くしていた。

このご時世、思うように活動できず苦しむ人もいる中、暴虐無慈に人生謳歌ハラスメントを行うウメハラは明らかに全世界の脅威となっていた。

そんな彼が唯一取り残した活動があった。

スカイダイビング。

目には目を 歯には歯を。

僕たちがスカイダイビングを先に決行し、ウメハラに人生謳歌ハラスメントの苦しみを味あわせる。

僕は時同じくウメハラの活動に狂気を覚えたタカオカアラタと共に、ウメハラ討伐スカイダイビング隊を結成した。

僕たちは早速国内のスカイダイビングスポットをしらみ潰しに探し、都内近郊にキャンセル待ちスポットを見つけ、すぐさま予約を試みた。

しかしこれはウメハラの罠であった。

数日後、僕たちが予約を入れようとしたスポットから「予約は出来ない」という旨の連絡があった。

恐るべしウメハラ。

彼は僕たちに先を越されないように、都内近郊の全てのスカイダイビングスポットに対して、海谷という者が来た際に「予約ができない」と伝えるようにと指示を出していたのだろう。

僕たちはウメハラのハラスメントに懸ける思いをまざまざと見せつけられた。

意気消沈するなか、タカオカアラタがこんな提案をした。

「兵庫にできるとこありますよ」

兵庫。かのタカオカアラタが産み落とされた忌々しき地。

なぜいまさら兵庫を訪れなくてはならないのか。

しかし悩む暇はなかった。

この瞬間にもウメハラは次なるハラスメントへの策略を考えている。

関東に海谷スカイダイビング禁止網を張ったウメハラも流石に関西に目を向けてはいないだろう。

こうして僕は兵庫行きを決めた。

兵庫といってもタカオカアラタの推したスカイダイビングスポットは人里離れた山奥にある。

ぬくぬくと実家の愛を享受し尽くすタカオカアラタはまだしも、実家の愛から離れる僕にとって兵庫の山奥はあまりにも遠い。

僕は前日に姫路の宿を取り、万全の準備をしてスカイダイビングに望むことにした。

9月1日 天気 快晴

僕は兵庫へ旅立った。

思えば関東圏から飛び出すのは半年ぶりだ。

18切符名物静岡地獄ですら今回はどこか楽しく感じた。

電車を抜ければ大空が待っている。

見渡す限りの青空。ジェットコースターでは決して味わうことのできない永遠と続く浮遊感。

僕は車内で何度もスカイダイビングのイメージを膨らませた。

「中文 空を飛ぶ」

そんなストーリーが出来た暁にはウメハラは嫉妬と羨望の眼差しを向けるに違いない。

出発から7時間、僕はついに米原に降り立ち新快速に乗り込んだ。

関西へ近づくに連れ、さらに気分が高揚していくのが自分でも分かった。

国内旅行も悪くないな。

そんな時ふと携帯を見るとタカオカアラタからの着用があった。

嫌な予感がした。

僕は恐る恐る用件を聞いた。

体の力が一瞬で抜けた。

これまでの高揚は何だったのか。

自らの人生計画を達成するためなら、天気を変えることをも厭わないウメハラに畏怖の念を抱いた。

恐ろしい。ただただ恐ろしい。

僕たちのスカイダイビング計画は消えた。

その時残されたのは既に予約を取った姫路のホテルだけだった。

せんりゅう

コロナなら

何をやめても

許される。

労働が

嫌なのではなく

人が嫌。

オスグット

どこにあるのか

わからない。

インドア人

常に生活

変わらない。

ゴロゴロゴロ

ゴロゴロゴロゴ

ゴロゴロゴロ。

世の中の

最たる恐怖は

正義の味方。

我が部屋に

湧き満つ謎虫

梅雨は近きか。

朝起きて

やることなくて

即二度寝。

おしり出す

意味は無いけど

おしり出す。

正論への怒りと受容

「民度」

ここ数日この言葉は僕を大いに悩ませた。

きっかけは某フリマサイトでのこんなコメントだった。

民度? 様無し? 字の汚さ?

は?

何を言ってるんだこいつは。

まず宛先の件。

僕はこれまでフリマサイトでの発送で宛先の「様」を書き忘れたことは無い。

ただしかし、1日の発送数が多いため、書き忘れていないとも言いきれない。

たった300円の商品が入った手に取って10秒で破り捨てる封筒に「様」が書いていなかったため、憤慨し評価を下げるほど気分を害したのならもちろん謝罪する。

ただそれなら「様が書いていなかったです。気をつけて下さい」と一言メッセージを送ってくれれば済む話じゃないのか。

なぜ「字の汚さ」と「民度」という言葉が出てくるのか。

字が汚いと言えど少なくとも送った商品はお前様の所にたどり着いた。

宛先というのは郵便局員様が分かるように書くものである。

宛先の字がどうだろうと郵便局員様さえ理解できれば何の問題もないはずだ。

つまり宛先というのは郵便局員様に向かって書いているものであり、お前様に向かって書いているのではない。

よってお前様が僕様の字の良し悪しについて語る資格は元々無いはずなのだ。

にもかかわらずこいつ様は僕様の字を批判するに留まらず、「民度」という概念まで持ち出してきたのだ。

お前様はなぜ一度も会ったことのない人様の民度が文字を見ただけで分かるのか。

人様の民度にそこまで敏感なのになぜ最も民度の低いといわれる無料フリマサイト様に重鎮しているのか。

だいたい最低価格の300円の商品で不特定多数の見る評価欄に適当な根拠で人様の民度について語るお前様の民度はいかほどなのか。

僕は怒りに震えた。

なぜこんな評価を受けなければならないのか。

毎回わざわざ手書きで一生懸命宛先を書いているのに。

怒りを消す一番の方法は忘却だ。

僕は可能な限り評価欄を見るのを止め、この理不尽を忘れることに努めた。

「字の汚さも相間って民度の低さが伺えます。」

別の購入者に宛名を書く時、いきなり「半額にしろ」と詰め寄る訳のわからない値下げ要求をされた時、はたまたニュースで飲食店に次々と自粛要求の紙を貼る自粛警察の様子を見た時。

そんな何気ない瞬間にあの言葉は餌が来た時にだけ水面に現れる気味が悪い鯉の群れの如く僕の脳裏に浮かんできた。

忘れたいのに忘れられない。

なぜ僕はたった一人のフリマサイトのユーザーが発した言葉に悩まされているのか。

夜はぐっすり眠り、朝昼夜しっかり食事をとって考え続けた後、僕はあることに気づいた。

あの言葉は正しい

人が一番怒りを覚える瞬間とは何か。

それは相手の指摘が図星の時である。

冷静に考えれば僕の字はとてつもなく汚い。

僕の平均字

少なくとも僕は自分への宛名がこの字だったら汚いと感じる。

これまで一切の苦言を呈することなく僕に良い評価を与えた人々たちも僕の字に関してきれいか汚いかと問われていたら、汚いと答えるだろう。

そして正しい指摘をした人に対して、その人のコメントを個人ブログに晒し、反論しようとする僕の民度は間違いなく低い。

もしこのブログがあの人の目に留まれば、間違いなく「字は人を語る」という価値観の更なる根拠となるに違いない。

こうしてあの言葉の正しさに気づくと、これまでの苦悩が嘘のように僕の怒りはスーと消えていった。

あまりにも正論過ぎる指摘を受けた時、人は現実を受け入れることができず、論点を反らし、やみくもに怒りをぶつける。

怒りを覚えた時こそが自分を見つめ直す良い機会なのかもしれない。



マスク作りの持つパワー

マスク不足。

この言葉が世間を賑わせるようになってからどれだけの月日が経っただろうか。

街にはマスクを求め集まる人が溢れ、ネットには製造地不明の高額なマスクが溢れ、といった具合に依然としてマスク不足の現実は続いている。

森羅万象担当大臣安倍晋三氏渾身のマスク配布作戦も不良品が多く混じるなど根本的な問題解決に寄与しているとは言い難い。

そんな中、巷では今世紀最大と言えるであろうマスク作りブームが訪れている。

#手作りマスクや#マスク作りとひとたび検索をかければ、時間と自己顕示欲をもて余した人々たちによる自信の作品たちが画面を多い尽くす。

マスクが無いなら作れば良い。

石油が無いなら作れば良いといった具合で石炭から石油を作ろうとしていた戦時中を彷彿とさせるような日本の代用精神は今もなお脈々と受け継がれていたのだ。

それにしても老脈男女をこれほどまでに熱狂させるマスク作りとはいったい何なのか。

彼らは単に「マスクが無いから」という固定観念に縛られ、半強制的にマスクを作っているのか。

はたまたマスク作りに人々を興奮させる強烈な魅力が存在するのか。

家庭科の授業以来一切裁縫に触れていない僕の想像力では「マスク作り」が生み出す化学反応が何なのか全く分からなかった。

想像できないなら創造しろ。

某有名動画配信者が以前語っていたこの言葉のように、世の中には当事者にしか理解し得ない感情がある。

実際にマスクを作ってみれば、マスク作りが持つ力を理解できるかもしれない。

こうして僕はマスク作りを始めた。

マスク作りに必要な物は布、ヒモ、針、糸とそれほど多くはない。

僕はまずメルカリにて600円で購入した正体不明の白い布を裁断し三つ折りにした。

マスク作りのサイトには横57cm×縦21cmで裁断すると書いてあったが、生地の長さが縦30cmだったため、9cmという微妙な長さの生地が余ることを嫌い、縦の長さの調整を怠った。

まあ僕は顔がデカいから大丈夫だろう。

#デカさは強さ

この怠惰が後に大きな悲劇を呼ぶこととなる。

次に左端と右端を2cm折り、縫い合わせた。

文章にすればたった一秒で終わるこの工程も裁縫不足の僕にとっては永遠に感じるようなものであった。

固すぎる布

たま結び失敗による糸のすり抜け

原因不明の絡まり

針の紛失

目立つ縫い目

なぜ人々はこんなにも面倒な作業に熱中するのか。

当時の僕には全く理解することができなかった。

こうして悪戦苦闘すること1時間、ようやく両端を縫い合わせることに成功した。

あとはヒモをつけるだけ。

あいにく僕はこの時マスクのヒモを切らしていたため、使い捨てマスクのヒモを切って用いることにした。

マスクを使ってマスクを作る。

マスク不足の解消には全く寄与していないこの方法だが、ただマスクを作りたいだけの僕にとっては何の関係もない。

僕が解消したいのはマスク不足ではなく、マスク作りの持つパワーを理解できないということから端を発するストレスだ。

つまりハンドメイドマスクパワーをノットアンダースタンドなのがストレスフルなのだ。

そんな訳で僕は使い捨てマスクのヒモを左右四ヶ所に縫い合わせ、初めてのマスクを完成させた。

デカい。 明らかにデカい。

布マスクは洗う度に縮むため、大きめに作ったほうが良いという定説があるが、それを考慮してもこのマスクはデカ過ぎる。

21cmという推奨を無視したことが大きな仇となった。

仮に政府が配布していたら間違いなく暴動が起きるレベルのサイズである。

試しにこの状態で近所を歩いたところ驚異の2度見率50%超えを獲得した。

これはコスプレ時の2度見率に匹敵する高い数字である。

色も形も均一化された市販マスクでは決してなし得ない結果であろう。

僕は手作りの持つパワーが何たるかをようやく実感したような気がした。

手作りマスクは自由度が高い。

布もサイズもカラーも作り手の思うがままだ。

数多くの楽しみが消えた殺伐としたご時世では、マスク作りが気軽に自らの個性を出せる自由度の高いコンテンツとして人気を博しているのだろう。

単に生活必需品製造に留まらず、作り手の創作意欲も掻き立てる。

これこそがマスク作りの持つパワーだと僕は感じた。

PS 僕の作ったマスクは着用2日目でヒモが外れた。