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スーパーパンプマックスの使い方を考える その2

前回に引き続きスーパーパンプマックスの効能について考えていきたいと思う。

前回の即興パンプ体験では以下のことが分かった。

  • 心臓のパンプスピード向上
  • 行動力向上
  • パワー向上
  • 思考力の低下

この特徴を考慮した時、スーパーパンプマックスが力を発揮する機会とは何か。

思考力低下の副作用ゆえに知能労働は向かない。

知能がダメならパワーだ。

知恵よりパワー。パワーは全てを解決する。

やはりスーパーパンプマックスはパワーを発揮する分野で力を授けてくれるはずだ。

しかし僕はあいにくトレーニーでないので、日常でパワーを求められる機会はない。

いや 違う。僕は自らのパワー不足を言い訳にパワーを伴う活動を避けているだけじゃないのか。

自分のパワー不足からパワー労働に逃げているだけだろ。

パワーがあったらしたいことは必ずあるんだ。

スーパーパンプマックスがある今ならできる。何でもできるんだ。

僕はパワーがあったらやりたいこと。

僕の頭に真っ先に浮かんだものがあった。

瓦割り

僕は幼少期からテレビや映画で登場する瓦割りに対して密かな憧れを抱いていた。

最強にパンプした屈強な人々が己の拳のみで頑丈な瓦板を粉砕する。

その人間は非力であるという常識を根底から覆す爽快な破壊っぷりは僕の心を揺さぶった。

瓦を割りたい。

最強にパンプした僕ならできるはずだ。

パワーがあれば夢は叶う。

こうして僕は瓦割りへの挑戦を決意した。

瓦割りとは言ってもまずどこに瓦を割れる場所があるのか。

調査を進めていくとなんと浅草に瓦割りを体験できる場所があることが分かった。

世の中はやはりパワー優先だ。

パワー系たちを満たすニーズは必ずある。

僕は予約を取ろうとwebサイトを訪問したが、当日申し込みのみで、予約は受け付けていないようだった。

流石パワー系客層を持っているだけある。パワー系にとって瓦は割りたい時に割るもの。予約という概念が通用しないのだろう。

僕は予約を諦め、一路浅草へ向かうことにした。

浅草駅から店までは約10分。

僕はスーパーパンプマックスの効果が現れる時間を考え、新橋駅でパンプを注入した。

新卒駅から浅草駅まで約10分

浅草駅に到着するころには既に僕のパンプは始まっていた。

まんぼうなんてどこ吹く風、浅草周辺は和風かぶれの小日本人がわんさか沸いていた。

「全員ぶっ飛ばす」

パンプが止まらない。

僕は通りかかった小日本人たちの頭を片っ端からカチ割りたい気持ちでいっぱいだった。

暴れるパンプを必死に抑えながら歩くこと10分、ようやく瓦割り店が現れた。

やっと瓦が割れる。やっぱりカチ割るのは頭ではなく瓦だ。

僕の割りベーションは最高潮に達していた。

しかし

そこに待ち受けていたのは厳しい現実だった。

はいぐ~「瓦割りがしたいです。」

店員 「あ~ 今からだと一時間半待ちですね」

一時間半待ち!?

今日ほどストレス社会の現実を思い知った日はないだろう。

世の中には瓦を割らなければ生きてゆけないほど鬱屈としている人々が大勢いるのだ。

僕が単に観光で浅草に来ているのなら、一時間半なんてどうってことない。

しかし今日はパンプを入れているのだ。

パンプの効果時間には限りがある。

そう パンプは待ってくれないんだ。

僕は泣く泣く瓦割りを諦めた。

店を出た僕は失意のまま浅草の街を歩いた。

気持ちは落ち込んでいる。でも体は動きたがっている。

僕の中のパンプが解放してくれと叫んでいる。

#パンプが叫びたがってるんだ。

そんな心体不一致な僕の目の前にある思い入れの深い施設が現れた。

バッティングセンター

僕が以前 反射神経向上を目標に通った思い出の施設だ

当日は140kmの豪速球に手も足も出なかった。

でも最強にパンプした今なら…

パンプの結果を試すにはうってつけの施設だ。

打ってやる 140km 打ってやる

僕の心が再びパンプを始めた。

心と体の一致を果たした僕はギラギラとした雰囲気を纏わせ、バッティングセンターに入った。

しかし

そこで待っていたのはまたしても残酷な現実だった。

混雑 圧倒的混雑。

打撃成績をパンプしたい少年たちが黙々と鍛練を重ねる場であるはずのバッティングセンターは老脈男女が入り乱れる娯楽施設へと姿を変えていた。

これでは僕の打席がいつ回ってくるのか想像もつかない。

何度でも言おう。

パンプは待ってくれないんだ。

僕は再び失意のままバッティングセンターを後にしようとした。

だがその時 僕の視線の先にある娯楽が登場した。

「ザ・握力」

中央にあるレバーを力いっぱい握るだけという思考力を問わない簡素な構造。己の肉体をこれでもかと見せつけるパンプ感あるキャラクター。

僕のパンプ効果を測るにはぴったりの存在だと感じた。

そうだ。力を測るうえで何もバッティングである必要はない。

すっかりこの「ザ・握力」に魅了された僕はコインを入れ、画面の指示通り力いっぱいレバーを握った。

見ろ これが僕のパンプだ!!

47kg

あまりにも微妙な結果に僕はしばし唖然とした。

そうか スーパーパンプマックスは普段から鍛練を重ねる者にパワーを授けてくれるのであって、普段からゴロゴロ生活をしている者を一瞬で強くするサプリメントではないのだ。

ゴロゴロ民が飲んだところでせいぜい強くなった気がするだけだ。

ただその一方でスーパーパンプマックスがなかったとしたら、瓦割りに興味を持つこともなかったし、浅草に行くこともなかった。

そして何よりこの記事を書くこともなかっただろう。

僕はスーパーパンプマックスの真の効能はここにあると考える。

自分が普段しないことに挑戦する勇気をくれる。

これこそがスーパーパンプマックスの真の効能なのだ。

スーパーパンプマックス。ぜひ一度お試しあれ。

~はいぐ~の小さな野望~ 日本一冷たい水風呂に入りたい

――サウナはいつだって人生の大切なことを僕たちに教えてくれる――

僕は以前本ブログにてサウナ素人の意地とプライドをかけ、サウナの魅力を熱く語った

この記事以降も冷めることなく、世界湯サウナほどの温度を維持した僕のサウナ熱は、僕を地元サウナ開拓へ走らせた。

街銭湯中の街銭湯「松の湯」から最新の設備がととのった「かるまる」まで

この世には開拓がいのあるサウナが至るところに溢れている。

#アナル開拓よりサウナ開拓

そんな大サウナ時代真っ只中の我が国日本に恍惚と輝き続けるサウナがある。

「ウェルビー栄」

日本のみならず、世界各地のサウナファンが愛してやまない「サウナの聖地」。

特に「日本一冷たい」と称される水風呂は関東一冷たい「かるまる」の水風呂をも下回る3℃。

サウナ開拓を志す者として必ず開拓せねばならないサウナに違いない。

このサウナに行かずしてサウナ開拓趣味を名乗るのは、指一本しか入らないのにアナル開拓趣味を名乗るようなものだ。

僕は「ウェルビー栄」開拓を決めた。

大寒波吹き荒れる12月某日

僕はあえて睡眠の取れないであろう夜行バスに乗り込み「ウェルビー栄」のある名古屋へ向かった。

移動自粛要請なんてどこ吹く風。社内は満員御礼。老若男女で溢れかえっていた。

さしたる観光地もない名古屋になぜこれほどまでの人々が苦しい思いをして夜行バスに乗り込むのか。

夜行バスの到着予定は朝6:00。この時間では名古屋自慢のグルメショップたちも目覚めていない。

そうなると答えは一つ 「ウェルビー栄」だ。

ここの乗客たちはみな早朝から空いている「ウェルビー栄」を堪能し、夜行バスでの不眠を補う快眠を果たすのだろう。

恐るべしサウナ熱。

やはり大サウナ時代到来は間違いではなかった。

夜行バスに揺られること約6時間。

僕たちを載せたバスは予定通り、名古屋駅近郊に到着した。

極寒の早朝名古屋に降ろされた乗客たちは熱を求め、ものの数分で「ウェルビー栄」方面へと消えていった。

サウナを求める人々のあまりのスピードについていけず、一人バス停に取り残されてしまった僕も一流サウナ通のアラタと何とか合流し、「ウェルビー栄」への歩みを踏み始めた。

三流名古屋メシ「なか卯」での休憩も挟んで歩くこと30分、聖地「ウェルビー栄」が姿を表した。

外の写真を撮るのを忘れたのでTシャツでご容赦下さい。

ビジネスホテル風の3階建てビル。

外観だけでいえば「聖地」には程遠い。

しかしサウナは見た目だけで決まらないことは小綺麗な外観にも関わらず、ハッテン場に成り下がった某マー湯が教えてくれた。

きっとこの「ウェルビー栄」には僕たちを驚かせてくれる「聖地」があるのだろう。

僕たちは期待に胸を膨らませて、「ウェルビー栄」に入店した。

受付を済ませ、すぐさま脱衣場へ。

男性専用にも関わらず、頻繁に脱衣場を往復する若女性店員にイチモツを見られつつ、足早に着替えを終え、浴場へ向かった。

浴場の広さは松の湯約3個ぶんほどとそれほど広くはなかったが、内湯1つにサウナ2つ、水風呂3つというこだわりのインテリア。

流石は「聖地」。ここはあくまでサウナを楽しむための場所だという主張がビンビンに伝わってくる。

そしてお目当ての「日本一冷たい水風呂」。

浴場奥に佇む2重扉の先に厳重に閉ざされ、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。

「これからここに入るのか」

僕は先ほどまでの期待が不安に変わるのを感じつつ、穢れた身体をシャワーで流した。

落ち着け。どんなサウナであってもやることは変わらない。

水風呂に入る前にはまず体を限界まで火照らせる。

「ウェルビー栄」には高温サウナと森のサウナという二種類のサウナがあった。

一流サウナ通アラタの「森はぬるい」というビックマウスもあり、僕たちは95℃のサウナに火照ることになった。

熱い!

冷静に考えればサウナ開拓にはまっていたのは主に11月。最後にサウナに入ったのも11月末、準備不足は自明の理であった。

僕はものの6分ほどで限界に達し、まだ火照りたげなアラタと共にサウナから出た。

”どんなサウナであってもやることは変わらない”

サウナで火照った後に待っているイベントはただ1つだ。

僕たちは高揚と不安に苛まれながらゆっくりと歩みを進めた。

待ち構える異質な2重扉。

サウナでの実力を証明し、自信ありげに先頭に立ったアラタが扉を開けていく。

寒い! 

アラタが2枚目の扉を開けた瞬間、凄まじい冷気が僕たちを襲った。

一説にはマグロ冷凍庫と同じ冷凍設備を使用しているらしいというこの水風呂。

流石は「日本一」期待を裏切らない。

あまりの冷気に畏れをなしたアラタは先ほどまでの自信が嘘のように、後ろへと下がった。

消去方的に先頭に躍り出た僕はこのまま戻る訳にもいかず、水風呂に足を踏み入れた。

その瞬間待っていたのは寒さでも、冷たさでもない。

痛みだ。

体の悲鳴がこもった痛み。

ルーティンを果たすために、痛みをこらえ肩まで水に浸かるとその痛みは全身に広がった。

身の危険を感じた僕たちは時間を数える間もなく、凍った手すりをつかみ、我先にと水風呂から飛び出した。

なんだあの水風呂は

サウナでじっくり限界まで火照らせた僕の体はたった数秒の水風呂で「冷」へと変わった。

恐るべし「ウェルビー栄」

僕たちの高い期待を大きく上回った。

しかし本当に恐ろしいのは水風呂だけではなかった。

どんなサウナであってもやることは変わらない。それがたとえ日本一の水風呂を前にしていても。

僕たちは先ほどあれだけ恐ろしい体験をしたのにも関わらず、すぐさま2セット目のサウナへと向かった。

水風呂がどれだけ冷たかろうが、1セットで終わることはできない。

真に恐ろしきサウナ開拓者の性だ。

その後も僕たちはサウナ→水風呂のルーティンを繰り返した。

次第にサウナの熱さには僕も慣れ、8分~10分の間耐久できるようになった。

一方で水風呂の痛みには最後まで慣れることができず、せいぜい10秒浸かるのが限界点であった。

この10分じっくり火照り、10秒一瞬で冷えるというルーティン。

どこかで経験したことがあるのではないか。

その「どこか」が何なのか。サウナ耐久中の回らない僕の脳ミソは常々この疑問に振り回されていた。

今ならはっきり言える。

このルーティンは人生そのものだ。

「積み上げるのは難しい、崩れるのは一瞬」

温かい関係を作るのには時間がかかるが、温かい関係は些細なことで一瞬にして冷え込む。

しかし「ウェルビー栄」が真にサウナと水風呂を通じて伝えたいことはこれだけではない。

冷え込んだ関係も時間をかけて温めれば最後に必ずととのう。

サウナはいつだって僕たちに人生で大切なことを教えてくれる。

「ウェルビー栄」はまさに「聖地」にふさわしいサウナであった。


サウナ道~男たちの戦場~

サウナ そこは男の戦場。

数々の修羅場をくぐり抜けてきた

屈強な男たちが己の限界に挑戦する…


僕は生まれて22年間、いまだ理解できずにいた問いがあった。

なぜ人はサウナに魅せられるのか。

近年男たちの間でサウナ活動は「サ道」「整う」といった言葉と共に流行を博している。

僕はこの流行に強い疑念を持っていた。

僕は夏場の売りセンで部屋に入った途端、エアコンを最低温度にまで設定する男たちの姿を通じて、いかに男たちが暑さを嫌っているかを知っている。

もちろんサウナは暑い。

ではなぜ暑さを異常に嫌う男たちが暑いサウナを愛好するのか。

また「整う」という言葉も僕にはいまひとつ理解の及ばない概念であった。

一説によると高温のサウナと低温の水風呂を交互に入ることで「整う」という境地に達することができるらしい。

サウナを訪れるのは脂ぎった男たちが多数を占めている。

自らの脂ぎった身体すら整えられないのになぜサウナと水風呂を往復しただけで「整う」のか。

サウナについて考えれば考えるほど謎は深まるばかりだ。

おっさんを制する者が人生を制する

今後社会の荒波をくぐり抜けていくためには、金と権力を持つ男たちのトレンドに敏感になり、友好な関係を築くことが重要だ。

男たちのトレンドを理解する一環として、サウナの良さを知る必要があるかもしれない。

百聞はサウナに如かず。

僕は実際にサウナへ足を運ぶことにした。

早速サウナの情報を調べてみると、なんと横浜市に関東一冷たい水風呂を自称するサウナがあることを発見した。

その名もヨコヤマ・ユーランド鶴見 

スーパー銭湯元年と呼ばれる平成2年にオープンしたといういかにも脂ぎった男たちが集まりそうなサウナである。

僕は行き先を定め、電車とバスを乗り継ぎサウナへ向かった。

(ちなみにヨコヤマユーランドの水風呂が9度なのに対し、池袋かるまるの水風呂は7.6度なので、関東一冷たい水風呂はデマである)

出発から約30分、目的地に到着したという表示を確認し、顔をあげるとそこには若者を拒絶するかのような昭和の香り漂うスーパー銭湯があった。

ここは間違いなく男たちの巣窟だ。

僕はすぐに受け付けを済ませ、脱衣場へと向かった。

脱衣場に若者の姿は無かった。

恐らく平均年齢は50を越えているだろう。

男たちのトレンド検証にはぴったりだ。

そんなことを考えながらあられもない姿になった僕はサウナとの戦闘の準備を整えるために、スーパー銭湯名物の温泉に浸かることにした。

温泉にはぬる湯と熱湯があったが、丁度良い湯は無かった。

温泉に浸かっている間も、僕の視線は常に数々の湯を押し退け中央に鎮座する水風呂と次々と男たちが消えていくサウナに注がれていた。

サウナには何があるのか。

好奇心から来る高揚感は温泉以上に僕の身と心を温めた。

戦闘準備を整えた僕はサウナの扉に手をかけた。

そこには僕の想像を越える光景が広がっていた。

10畳そこらのサウナに脂ぎった男たちが所狭しと座っていた。

その息を切らし、汗を垂れ流す男苦しい様子は北京ゲイサウナを彷彿とさせた。

形の違いはあれサウナで見られる光景はどこも同じなのかもしれない。

僕は唯一空いていた一番熱い釜戸前に座り、男たちを観察した。

びっしょりと汗を流しじっと俯く男、息を切らして天を見上げる男。ひたすらに時計の針を見つめ、出る時間をいまかいまかと待つ男。

実に多様な男たちの姿がそこにはあった。

彼らみな己と戦っていた。

少しでも長くこの場にとどまろうと。

しかしまだ僕には彼らが戦う理由は分からなかった。

何のために? 何が楽しい?

そんな疑問を浮かべているうちにも釜戸の熱線は容赦なく僕を照りつけた。

僕は己の限界を感じ、一旦外へ飛び出した。

「水風呂無くしてサウナ語るべからず」

サウナ前には冷に餓えた男たちを待ち構えるかの如く、青々とした自称関東一冷たい水風呂が鎮座していた。

今までの水風呂はせいぜい15度そこらだった。

9度の水風呂は明らかに未体験ゾーンだ。

僕は近くのシャワーを浴びて水風呂の前に陣取った。

正直全く入りたくなかった。

しかしどこかのウメハラが言っていた「自分が嫌なことをやらなきゃ意味がない」という言葉が僕を奮い立たせた。

そうだ自分が嫌なことをやれ。じゃなきゃ新しい発見はない。

僕は意を決して水風呂に足を踏み入れた。

ヤバい。エグい。

水風呂に入り肩までつかると、僕は全身の筋肉が一気に引き締まるのを感じた。

氷水にいきなりぶちこまれる魚はこんな気分なんだろう。

僕は実の危険を感じ、15秒を経たないうちにすぐさま飛び出し、熱を求めてサウナへ逃げた。

なんだあれは。

サウナに逃げ込んでしばらく立ってもふくらはぎの張り詰めた感覚が残っていた。

あんなのにここの男たちは入り続けているのか。

僕は彼らに尊敬と畏怖の念を覚えた。

水風呂を経たからであろうか。

僕は最初に入った時よりもあまりサウナを熱く感じず、気づいた時には最初の倍近い時間サウナに滞在していた。

僕はここである新しい感情に出会った。

達成感だ。

以前よりも長い時間サウナにいたことから、自らの耐久力向上を実感し、僕は達成感を覚えていた。

ただ座っていただけなのに、自分が成長した感覚があった。

その感覚は僕がここ最近で得られていないものであった。

なんだこれは。

その後僕は意識的にサウナと水風呂を前回よりも長く入るように心掛けた。

10秒 20秒 30秒

3分 5分 7分

時間を意識することで圧倒的に苦しさは増した。

しかし自らの目標時間をクリアした時、確かに達成感と爽快感を得ている僕がいた。

これだ。

この感覚こそが世の男たちを魅了しているんだ。

サウナに訪れる男たちは圧倒的に中年以上が多い。

彼らは生活の中で、日々自らの衰えを感じ続けている。

人生のピークを終え、自らに迫り来る老いを淡々と待つ生活は残酷極まりない。

そんな中、彼らはサウナで「耐える」という単純な行動を通じて、自らの限界を越え、成長を感じる。

彼らにとってサウナは老いを感じ続ける日々に抗い、成長を目指すことのできる数少ない場所なのである。

ここはスーパー銭湯じゃない。

スーパー戦場なんだ。

無情な老いに抗う男たちが己の限界と戦う汗と涙の戦場なんだ。

そのことに気づいた僕の男たちへの印象は完全に変わっていた。

確かに彼らはみな脂ぎった体をしているかもしれない、しかしその体の中には老いてなお成長を目指すのを止めない屈強な精神力があるのだ。

僕にはこの男たちのような屈強な精神力はまだない。

サウナは人を強くする。

サウナの底知れる可能性を知ったサ道体験だった。




僕は治験に落ちた

僕は治験に落ちた。

結果発表は入院予定日の前日だった。

入院者には予定日の1週間前から、いくつかの行動制限があった。

合格ありきの発表だと思っていた。

僕はこの1週間、治験候補者として恥じないような生活を送ってきた。

大好きなビタミン剤もカップ麺ぶっこみ飯もやめた。

酒の誘惑も自慰の誘惑も絶った。

全ては被験者として新薬の発展に寄与し、社会に貢献するためだった。

しかし僕は落ちた。

同じ事前検査を受けたS塚とT岡は合格した。

入院直前にも関わらず、大阪で飲み散らかしていたS塚。

普段から他人を殴り散らかしているT岡。

日本の創薬界を支える重要な治験に参加するべき人材とは到底思えない。

だが 合格したのは彼らだった。

詳しい理由は分からない。

ただ1つ分かることは僕の体には決して創薬界には関わってはならないと評価されるほどの重大な欠陥があるということだけだ。

その欠陥が何であるかを教えてくれる者は誰もいない。

受付おばさんもただ「他の方が合格しました」と伝えるばかりだ。

僕が治験に落ちたのはこれで3回目だ。

僕はこれまで治験に合格できるのは「日本社会に貢献したい」という信念のもと、常に自らの体と向き合い、理想の健康状態を維持する一流健康家だけだと思っていた。

今回の結果はそんな僕の慰めを完膚なきまでに打ち砕いた。

僕の健康状態は「中」ではなく「下」だったのだ。

僕が今回の治験で手にしたものはこの事実だけだ。

事前検査でもらった3500円はその日のうちに交通費と交際費に消えた。

僕にとっての今回の治験はただ東大宮まで行って「お前は不健康だ」と罵倒されるだけのイベントだったのだ。

それも不健康の詳細は伝えられることはなく。

こんなに不毛な出来事に出くわすことはそうそうない。

そんな僕が本ブログで伝えたいことがただ1つある。

「健康を大切にしよう」

国民的アニメに潜む陰謀~はぐしちゃおと西洋諜報機関~

今年1月の発生以降猛威を振るい続ける新型コロナウイルス。

世界での感染者数は既に170万人を越え、各方面への影響も計り知れない。

我が国日本にとってもこの窮状は例外ではなく、先日緊急事態宣言が出されたのを皮切りに、国全体にかつてないほどの緊張が走っている。

その一方で発生地である中国にほど近く、2月上旬から感染者が出ていたのにも関わらず、比較的感染のピークを遅らせた日本の対策を評価する見方もある。

この要因は諸説あるが、その1つに日本人の衛生意識の高さが指摘されている。

「日本人は西欧人のように挨拶代わりの握手やハグをしない。」

他国のような強権的な政策を行っていないにも関わらず、比較的感染者を抑えることに成功していることを考慮すると、この説には一定の信憑性があると私も感じる。

しかし遡ること約15年ほど前、この日本を救った公衆衛生の意識を破壊しようとする危険な動きがあったことを皆さんはご存知だろうか。

まずはこの曲をお聴き頂きたい。

この曲は2005年から国民的アニメ「ドラえもん」のオープニングに使われた「はぐしちゃお」である。

歌詞の中心部には

はぐしちゃお はぐしちゃお

大人も子どももはぐしちゃお

はぐしちゃお はぐしちゃお

犬にも猫にもはぐしちゃお

といった「人と人との接触を8割減らす」という現在の考えとは真っ向から反する価値観が語られている。

それまでのドラえもんのオープニングは「あんなこといいな♪できたらいいな♪」でお馴染みの「ドラえもんの歌」が約20年ほど使われていた。

すっかりお茶の間に馴染んだ「ドラえもんの歌」を切り捨て、日本人に全く馴染みのないバグを強要する「ハグしちゃお」を起用するという手法には強い疑問が残ると言わざるを得えない。

なぜ「ハグしちゃお」がドラえもんの主題歌となったのか。

そこには数十年後を見越した危険な陰謀が隠されていると私は考える。

西洋諜報機関によるハグ文化定着を足掛かりとした国力低下工作

日本は時にこう呼ばれることがある。

「スパイ天国」

ひとえにスパイ防止法が存在せず、仮にスパイ行為が発覚しても重罪を課されることが無いということがこの不名誉な名称に繋がっている。

それゆえに日本では第二次世界大戦後からアメリカを筆頭に様々な国家のスパイたちの温床となってきた。https://diamond.jp/articles/amp/213851?page=2&skin=amp&device=smartphone&display=b

戦後急速な経済発展を遂げ、西洋諸国をも脅かす存在となった日本を機密情報と妨害工作によってコントロールするのは彼らにとって重要課題であったに違いない。

先ほど掲載したリンクの情報が正しければ、政界から経済界はたまたエンタメ業界まで、西洋諜報機関が多くの役割を果たしてきたのは確かである。

しかしそんな西洋諜報機関をもってしても崩すことのできなかった概念がある。

「公衆衛生への意識」

終戦から現在まで日本は多くの分野において進歩的、開明的と称して西洋の考えや流行を取り入れてきた。

ある者は常々西洋的な生活を自慢し、またある者は西洋と日本の違いを日本の劣等性と捉え、批判を続けてきた。

そんなすっかり西洋かぶれした日本において唯一といっていいほどに浸透しなかったのが衛生観念に関係する文化である。

握手やハグ、そして土足へ家に上がるといった西洋では当たり前のように存在する文化。

どれも日本では「汚い」「気持ち悪い」といった理由で浸透することは無かった。

これらの衛生意識の高さは思うが儘に日本を管理してきた西洋諸国にとってはさぞかし歯がゆいものであったに違いない。

またそれと同時に衛生意識の高さを問うような世界規模の災難が起きた場合に日本の一人勝ちを許してしまうのではないかという危機感を募らせるに十分なものであっただろう。

いかにして日本人の衛生意識の高さを崩していけば良いのか。

特にバブル経済が崩壊し、経済面において日本が脅威でなくなった1990年代後半以降にはこの問題に関する議論が盛んに行われていた可能性が高い。

「握手はあいさつ」「ハグはコミュニケーション」

彼らは薄っぺらい標語を使い日本に濃厚接触文化を根付かせようと試みた。

しかし西洋かぶれしたうさん臭い中年の言葉に耳を傾ける者は多くはなく、時間だけがただただ空しく過ぎていった。

そんな時彼らが目をつけたのが国民的アニメ「ドラえもん」であった。

「アニメキャラを通じてハグ=友好の証という印象を子供たちに植え付ける。そしてハグは素晴らしいものという価値観を持って成長した子供たちが十年後若者の最先端の文化としてハグを広める。」

ざっと彼らの計算はこんなところであろう。

2005年4月「ドラえもん」はリニューアルと称してキャスト、画風、そしてオープニングを一掃した。

キャストの高齢化や時代に合わせた画風の変化は理解できるものも、オープニングに関しては、

アニメ版「ドラえもん」において歴代オープニング曲のタイトルに「ドラえもん」という名称が使われていないのはこの「はぐしちゃお」のみである。

国民的アニメのリニューアルのオープニング曲という重要な局面に日本人にとって馴染みの浅いハグを全面的に推し出す曲の選出は不可解である。

私はこの「はぐしちゃお」の選出過程において西洋諜報機関が何らかの形で関わっていたと考える。

先述のリンク先には西洋諸国の諜報員は日本の様々な大企業に属しているという記述があった。

産業スパイの目的の一つに「利益追求の目的達成を阻害したり、その機能を破壊する行為」があるということを考慮すれば、

従来の慣習通り「ドラえもん」というタイトルが入ったオープニングを採用するという「目的」を大企業に潜む諜報員がハグ文化推進のために「破壊」した可能性も大いに考えられる。

さらに西洋諜報機関の影響を示す根拠はこの「はぐしちゃお」の曲そのものにも強く表れている。

はぐしちゃお はぐしちゃお

大人も子どももはぐしちゃお

はぐしちゃお はぐしちゃお

犬にも猫にもはぐしちゃお

互いにハグをする愛くるしいキャラクターと共に「はぐしちゃお」というフレーズ繰り返し、子どもたちの脳の中に刷り込む。

明らかに洗脳だ。これを洗脳と呼ばずして何を洗脳と呼ぼうか。

これを聞いた無知な子供たちは「ドラえもんがやってるから正しいことなんだ」と考えるようになってしまってもなんらおかしくはない。

またこの曲の中心である「はぐしちゃお」というフレーズにも西洋諜報機関の特徴が存在する。

この曲はあくまで「はぐをしろ」という命令形ではなく「はぐしちゃお」という自発系を使っている。

先述のリンクに諜報機関の特徴としてこのようなことが書かれていた。

「脅迫をするのではなく、そこを突破口にして、あくまで自発的に協力をしてくれるように仕向けていくのだ。」https://diamond.jp/articles/amp/213851?page=2&skin=amp&device=smartphone&display=b

「ハグしろ」ではなく「はぐしちゃお」強要ではなく自発。

やらされるものというイメージの強い「ハグ」ではなく自分でもできそうと感じられるような柔らかイメージの「はぐ」

自発的に「はぐ」をするように仕向ける諜報機関特性がはっきりと表れている。

以上の根拠からも分かるように、この「はぐしちゃお」は明らかに西洋諜報機関によるハグ文化推進を睨んだプロパガンダである。

彼はこのハグ文化推進を足掛かりにして、様々な西洋不衛生文化を浸透させ、日本人の衛生意識低下を目論んでいたのである。

幸運なことにこの忌々しきプロパガンダソング「はぐしちゃお」はわずか2年でドラえもんのオープニング曲の座を失い、日本にハグ文化が大きく広まることは無かった。

一見自然発生のように見える流行や習慣の登場の裏には様々な機関の思惑が存在するということが世の中には多々あるのだ。

最強の剣士

「ザ カイキャロット」

この名前に聞き覚えのある者はいるだろうか。

「臭い」「もやし」「邪魔」「エイリアン」といった数多くの異名を持ち、先の世界大戦では負傷ゼロという脅威の戦績を誇った最強の剣士である。

これは彼の戦闘態勢を撮影した貴重な写真である。

見た者を1000年以内に必ず死に至らしめるといポーズ。

この写真を撮った者はすぐさま植物状態に陥ることを余儀なくされたという噂もある。

彼の必殺技はその圧倒的な念力を生かした祈祷である。

災害レベル「寿司」に指定されているこの必殺技は1テーブルの雰囲気を完膚無きまでに破壊せしめる威力を持ち、某有名私立高校では特定禁止行為として厳しく取り締まりが行われている。

一見付け入る隙の無いように見える彼だがある重大な弱点を持っている。

罵声だ。

特に冒頭に紹介した異名「もやし」「エイリアン」といった言葉を彼の祈祷中に放り投げると、彼は過去のトラウマを思い出し、頭を抱えたままその場に倒れこむ。

メンタルの強そうな彼だが人一倍単純な罵声に脆い。 

※今回の人参はスーパーにて1本69円で購入しました。

甲子園を観ているといつも幼少期の奇妙な性癖を思い出す

例年熱い戦いが繰り広げられ、日本の夏の風物詩として君臨する高校野球。

甲子園という大舞台のために全てをかける球児たちの姿に心打たれ、毎年現地やテレビの前で観戦するファンも多い。

僕もそうした高校野球ファンの1人である。

元高校球児であった父の影響もあり、僕は7歳の頃から高校野球を観始めた。

当時は新聞にあったトーナメント表を見つけてはハサミで切り抜き、毎日ニュースや新聞で結果を確認して書き込み、

大会が終わると「高校野球神奈川グラフ」や「甲子園の星」といった高校野球雑誌を購入して隅々まで読み込んでいた。

両親が共働きなため、夏休みになると小児収容施設である「学童保育」に収容されていた僕にとって学童をサボって観る高校野球は夏休みの数少ない娯楽であった。

こうした僕の高校野球好きは夏休みだけにとどまらず、高校野球の情報を集めるために、

甲子園が終わった後も「高校野球事件史」「名門野球部の甲子園伝説」などの雑誌を読み込み、高校野球の知識を蓄えていった。

こうした僕の高校野球への愛が別の形に変化してしまっていたのもちょうどこの頃であった。

僕が自慰行為を覚えたのは7歳の時であった。

これはちょうど僕が高校野球を見始めた時期と重なる

そう

当時の僕の自慰行為のネタは「高校野球」たったのだ。

実際に当時読んでいた雑誌を見ると、特定の選手にいくつか下の写真のようなマークがつけてある。

おそらく僕は当時このマークがついていた選手で自慰行為をしていたのだろう。

マークがついている選手たちには共通点がある

それは「大事な場面で結果を残せていない」ということだ。

マークのついた試合ということではないが、マークのついた選手はみな後の試合で勝敗にかかわる場面で打てなかったり、エラーをしたりしている。

当時の僕も子ども心ながらに高校野球の選手たちはとてつもない努力を重ねているということを理解していた。

夏の大会という集大成のために、途方もない練習を重ねたのにも関わらず、結果を残すことができない。

僕はそんな「努力が報われない姿」に興奮し、その感情の高ぶりを性的な興奮と混同してしまっていたのだと思う。

時が経つと共にいつの間にか高校野球にそうした興奮を覚えることは無くなったが、

現在のセックスに関心を持てないという僕の性癖を考えると、いまだにこの「報われない努力」に興奮するという根幹は変わっていないと思う。

僕の脳内はいまだに「報われない努力」に対して覚えた興奮を性的興奮と誤解したままなのだ。

いうなれば 僕はおそらく人生観フェチなのだろう。

この先 僕の性癖はどのように変わっていくのか。

現段階で言えるのは「報われない努力」への過度な崇拝は変わることはないということだけだ。

PS ビリビリ動画(ニコニコ動画の中国版)のチャンネルを作りました。良かったら観て下さいhttps://www.bilibili.com/video/av64564824

僕はワセダに失望した

先日 早稲田大学の学部事務所からこんなメールが届いた。

呼び出し。

どうやら先日僕たちが大学内で許可無くプールをしたことが原因のようだった。

僕の呼び出しに先立って一緒にプールを企画を行った教育学部のこんりんの呼び出しが昨日行われた。

彼の語った呼び出し内容は衝撃的だった。

彼の話によると呼び出しは彼と教育学部の教務主任、書記の3人で行われたそうだ。

こんりんはまず教務主任に今回のプール企画が早稲田から1トン増やす会の活動の一環であることを説明し、プール企画に至るまでの活動を説明した。

すると教務主任はこう語ったそうだ。

「くだらない」「お前らの活動は無意味だ」

ちゃんこの炊き出しも武蔵野アブラ學会とのコラボもそして今回のプール企画も

教務主任は僕らの活動を全て「無意味、くだらない」ものとして切り捨てたのだ。

早稲田大学のホームページにはこんな言葉が記載されている。

「多様性重視と個性の尊重は早稲田の伝統」

学生の活動を否定しておいて

なにが多様性重視だ なにが個性の尊重だ。

今回の問題の争点は僕たちが許可をとらずにプールを行ったことであって、企画内容そのものを否定される筋合いはどこにもないはずだ。

もし仮に僕たちがプールの際に道行く人を片っ端からプールに突き飛ばしたりといった他人へ迷惑をかける行為や法に触れる行為を行っていたならまだしも、

僕たちは今回そのような行動はしていない。

確かに今回は大学に許可を取らなかった点は僕たちの落ち度であり、反省すべき点である。

しかし僕たちはこれまで「他人に迷惑をかけない」という理念のもと活動を行ってきた。

実際に今回の一連の企画において僕たちの活動が社会に大きな損害を与えているなどといった主張はない。

にもかかわらず、教務主任は僕たちの活動を「無意味でくだらない」と完全に否定した。

僕は早稲田から1トン増やす会を立ち上げてからの2週間本当に楽しかった。

どんな企画がおもしろいか友達と話し合ったり、実際に企画に集まってくれた人たちが笑っているのを見たりする時間は本当に楽しい瞬間だったし、

自分の好きなことは「人を楽しませること」だということを改めて確認した2週間でもあった。

そんな僕たちが充実した時間を過ごした2週間のどこが「無意味でくだらない」というのか。

さらに教務主任はこんりんにこんな言葉もかけたという

「こんなくだらないことをしてないでもっと大学生らしく行動しなさい」

大学生らしさってなんなんだよ。

僕はいま「人に迷惑をかけない」といった最低限のルールのもと、自分が「楽しい」と思ったことをしている。

大学内で「楽しい」と思ったことをやって学生生活を送っている学生のどこが大学生らしくないというのか。

学生の楽しみを否定して大学生らしさを奪っているのは誰なのか。

自分たちの価値観で勝手に学生の活動を「無意味」と否定するのが早稲田大学が伝統と主張する「個性の尊重」なのか。

大学職員たちの凝り固まった価値観でしか学生の行動を判断できないなら「多様性重視」 だとか「個性の尊重」だなんて言葉を掲げるのはやめろ。

とにかく僕は今回の教育学部の教務主任の対応には深く失望した。

1週間後には文学部の教務主任からの僕への呼び出しが行われる。

今回と同じような対応が文学部で行われないことを心から願っている

退屈な大人になりたくないんだ

僕は最近ある団体を立ち上げた。

何を隠そう「早稲田から1トン増やす会」だ。

お気づきの方もいるかもしれないが、この団体は以前「僕は人を叩けない」で僕には作ることができないと語り設立を諦めた団体だ。

確かに僕はあの時設立を諦めた。しかし僕のなかでどこかこの諦めが残り続けていた。

「自分はただやらない理由を作っているだけなんじゃないか」

僕は明らかに「早稲田から1トン減らす会」の行動に怒りを感じていた。

1トン減らすと意気込んで約70人の会員を集めたにも関わらず何の企画も実行しない消極性

1ミリのセンスも感じないネタツイート

僕はこうした「団体を立ち上げた」という事実だけに満足して何も行動を起こさない団体が大嫌いだ

こんなのはうんこをすることに満足して水を流さない連中と同じだ

僕はあいつらをぶっ叩きたかった。

でも僕がそうしてなかったのは叩くことによって彼らと対立することを恐れていたからだ

「退屈な大人になってしまったわ トラブりそうな相手を避けながら… 」

これは僕の大好きなYUIの「Lock on」という曲の一節だhttps://youtu.be/3d3lt2JxYXs

決断に迷ったときいつも僕の頭によぎるのはこの曲だ。

いつだかこんな記事も書いていた。

「常識を疑え 我慢することが大人なのか 」

退屈な大人になるな

もう1人の僕は確かにそう叫んでいた

こうして僕は「早稲田から1トン増やす会」の設立を決意した。

団体というのは動いているからこそ存在価値がある。動いていない団体は「死んだ」も同然だ。

僕はいまこの価値観のもと「早稲田から1トン増やす会」で動き回っている。

設立当初は「早稲田から1トン減らす会」を叩きまくり

増量に成功した人の素晴らしさを伝えるためにデブ専門風俗に行ったり

「学生の増量を助ける」という名目でキャンパスで力士に扮しちゃんこを配ったり、

大学付近で絶大な人気を誇る「武蔵野アブラ學会」とコラボしたり

発足以降一度も行動を起こさない「早稲田から1トン減らす会」のアンチテーゼとなるためにひたすら面白いと思ってことを実行し続けている。

いま僕は本当に楽しい。

僕は最近少しブログの閲覧数が増えたからってゲイネタに頼りきっていた。

でも僕のしたいことは「面白いこと」であってそれは必ずしもゲイネタだけという訳ではない。

僕は「退屈な大人」になりたくないんだ

そんな自分の原点に気づかされてしまった。

明日は何の企画をしようかな

https://twitter.com/debugaseigi/status/1154355104134262784?s=19

実録 ハッテン場の実態を追え ~テルマー湯に潜む怪~

みなさんはテルマー湯という施設の存在を知っているだろうか?

2015年8月のオープン以来「都会の中心で五感を潤す」をコンセプトに欲望の街、新宿歌舞伎町に訪れた人々の癒しの場として親しまれてきたスパリゾートだ。http://thermae-yu.jp/

終電を逃したサラリーマン、仕事終わりのキャバクラ嬢、はたまた旅行中の外国人。

テルマー湯に訪れる人種は実に豊富である。

そんな誰からも愛される安らぎの場であるテルマー湯だが、例の如くある奇妙な噂が流れている。

そう ハッテン場だ。

このテルマー湯も前回潜入した戸山公園と同じく「テルマー湯 ハッテン場」と検索すると多くの掲示板が乱立している。

しかし最初にも述べたようにテルマー湯はあくまで一般人向けのスパリゾートであり、テルマー湯に訪れる人の全てがゲイという訳ではない。

また多くの人が訪れるスパリゾートのため、戸山公園のような人気の少ない個室もない。

「彼らはどのようにして行為に及ぶのか?」

こうして僕はテルマー湯への潜入を決めた。

そして前回の潜入から一週間がたった7月18日木曜日 僕の潜入は決行された。

僕はまず掲示板で「彼ら」が多く出没すると言われていた午前0時前後に入浴を行うため、午後11時にテルマー湯の前に訪れた。

そしてこのテルマー湯の前で僕の潜入に興味を持ち参加を申し出た篠塚康介氏と落ち合いテルマー湯に入館した。

この日は激しい雨が降っていて、お互いにかなり濡れていたということもあり、僕達はとりあえず風呂に入ろうということになり、大浴場へ向かった。

大浴場の入口 とても「彼ら」の潜む場とは思えない

僕たちは入浴前これからハッテン場に潜入するという緊張から妙にソワソワしてお互いの体を触りあっていた。

大浴場は大きな浴槽が1つに小さな浴槽がいくつも存在するという至って普通の作りをしていた。

にも関わらずそこがハッテン場であると意識しただけで不思議と入浴している人が全て「彼ら」に見えて落ち着くことができなかった。

僕たちは体を洗った後、いくつかの浴槽を回った。途中50代ほどの小太りな白人男性に数秒見つめられることもあったが、特に何も起こらず僕たちは最初の入浴を終えた。

正直かなりガッカリした。

確かに僕たちを見つめてきた白人男性はゲイであったかもしれないが、普通の銭湯にも隠しているだけでおそらくゲイの人はいるだろう。

僕が今回期待していたのはハッテンに及ぶ「彼ら」の姿である。

しょせんはただのスパリゾートか。

僕はテルマー湯に泊まるために払った4000円が惜しく感じるようになっていた。

篠塚氏も僕と同様にガッカリした様子で「喉が痛いから寝る」と言って足早に休憩室へと消えていってしまった。

僕も寝ようかな。

僕は時間を確認した。

時間は午前0時を少し過ぎたころだった。

僕の脳裏に午前0時を過ぎた頃が一番盛り上がるという掲示板の情報が浮かんだ。

「寝るのはまだ早いしまあ行ってみるか」

僕はそんな軽い気持ちで2度目の入浴へ向かった。

僕が脱衣場で着替えていると最初の入浴時に僕のほうを見てきた白人男性に偶然遭遇した。

彼は明らかに服を着て入浴を終えようとしている様子であったが、僕のことを見た瞬間彼は急に服を脱ぎ始め再び大浴場へと消えていった。

「きたか」

1度目の入浴で何も起こらなかったことですっかり油断していた僕もここが改めてハッテン場であるということを意識せざる負えなかった。

僕は大浴場に入るとすぐに湯船が白く濁っていて下が見えないシルク風呂に浸かって彼のことを待った。

しかしどれほど待っても彼は来ない。

そのうちに僕はのぼせてしまい、別の風呂へと移動した。

その後僕は少し浸かってはのぼせという流れで小さな浴槽を移動し続けていた。

彼への期待は僕の度重なる移動が少しずつ打ち消していた。 

こうして移動を重ねるうちに僕はある奇妙な点に気がついた。

その時大浴場には僕のほかに10人ほどの男たちがいた。その多くは僕のように移動することなく、1つの浴槽で大半の時間を過ごしていた。

しかしその中でただ1人だけ僕と同じ移動ルートをとる男がいた。

その男は白人男性ではなかった。

その男はメガネをかけた中肉中背で30代ぐらいの男だった。

彼は僕がシルク風呂に移動するとシルク風呂、ジェット風呂に移動すると隣のジェット風呂という要領で僕と全く同じルートで移動した。

最初僕は偶然だろうと思ってあまり気にしていなかった。しかし僕が数十秒で移動した際にもすぐに彼も僕と同じルートで移動したのを確認し、徐々に自信を深めていった。

僕はこの自信を確信に変えるためにある賭けにでることにした。

テルマー湯には大浴槽の他に6つの小浴槽がある。

先ほど名前のあったシルク湯やジェット風呂は屋内風呂である。

この小浴槽の中で唯一屋外にあるのが寝転び湯だ。

寝転び湯はこの写真で若干わかるように四方を仕切りで囲われており、外から中の様子が見えにくい仕組みとなっている。

僕は屋内風呂を行き来していた流れで、急にこの寝転び湯に移動した時に、彼もまた寝転び湯に移動してきたなら完全に彼はクロなのではないかと考えた。

僕はすぐさま行動に移し、寝転び湯へ寝転びに行った。

僕が寝転ぶこと数分、すでに見慣れてしまった彼の影が現れた。

「ビンゴ」

僕は驚きと困惑の感情を必死に隠しただただ目を仰向けで寝転んでいた。

案の定彼もまた僕の隣で寝転んだ。

この時4つある寝転び台のうち3つが埋まっていた。

彼は明らかにもう1人の入浴客がいなくなるのを待っているようだった。

そしてもう1人の客がいなくなり、寝転び湯に僕たちだけが取り残された次の瞬間、

僕は自分の手に何かが触れたことに気づいた。

それが彼の手であるということに気づくまでにそれほど多くの時間はかからなかった。

彼は僕が嫌がる素振りを見せないとみるとさらに僕の手を強く握りしめた。

それから何分がたったころだろうか。

僕は遠くの屋内風呂の方から施設のスタッフが近づいて来ているのに気づいた。

僕は慌てて彼の手をほどき、少しのぼせ気味であったこともありすぐに寝転び湯を出て近くのベンチに座った。

急に僕に手をほどかれて驚き気味の彼だったがすぐにスタッフたちの姿に気づき、納得した様子で寝転び湯を出て、何も言わず僕の隣に座った。

僕らは互いに言葉を交わすこともなくベンチに座り込んでいた。

やがて気まずさに耐えられなくなった僕は白く濁っていて下が見えないため絡みに向いているシルク風呂に向かった。

そして湯船に着くとすぐに彼の方を見て彼を誘った。

すると彼は満足気な様子でシルク風呂の方へ歩を進めた。

次の瞬間だった。

どこからともなく最初に会ったあの白人男性が僕の目の前に現れた。

この男は僕と目が合うと今度はまっすぐ僕の方へ歩みを進め、シルク風呂に浸かるとすぐさま僕の真横に陣取った。

寝転び湯で手を繋いだ彼はこの白人のあまりに急な行動に呆気にとられシルク風呂を素通りし、隣の風呂で僕たちの様子を伺うほかなかった。

僕との「特等席」を手にいれたこの白人男性はここぞとばかりにシルク風呂の特性を活かして太もも、玉袋、局部の順で僕の下半身を撫で回した。

こうして僕は人生で初めて「痴漢」を経験した。

よく痴漢を経験した人は「声が出ないほど怖い」といったネガティブな感情を口にするが、僕の場合は違った。

僕はこの白人男性に触られている時、純粋に彼に「楽しんで欲しい」と思った。

遠い異国の地からはるばるやって来てやっと見つけた僕の局部がどれだけ撫でてもいっこうに立たなかったら彼はどう思うだろうか。

僕は彼に少しでも日本で良い思い出を作って欲しいと思ってひたすら自分の局部を立たせようと試みた。

シルク風呂のうだるような熱さとスパリゾートという特殊な環境で粘ること数分、僕のちんこは見事に立ち上がった。

彼は見事に立ち上がった僕の局部を見て満足気な様子でこう言った。

「アツイネ」

これが何を意味する言葉なのかは僕には分からない。

ただ僕が分かるのはこの言葉を言った後、彼が僕の元を離れたということだけだ。

役割を終えた僕もまた反り立った局部と共にシルク風呂を後にした。

隣の浴槽から羨望の眼差しを受けているような気がした。