お久しぶりです。

僕は今日このブログを開いた。

最後の更新は7月。

3ヶ月もログインしていないのだから、もはや僕のブログではなく、2年もの間、大した説明も受けず、健気にサーバー代を払い続けている母親のブログの称しても良いかもしれない。

ブログ更新を怠っていた3ヶ月間の日々が、あまり記憶に残っていない。

関西を周遊したり、釣りに行ったり、高尾山したりといった思い出はもちろんあった。

twitterを始めた結果、ついつい楽なツイートに逃げてしまい、事象の深掘りができていない。

書けることは必ずある。

少しずつ書いていこうと思う。

「無」の生活への受容

帰国したから半年が経った。

一時期なシノギ削りのためのはずだった帰国も某ロナの影響によってずるずると半年まで延びてしまった。

この半年間を一言で例えるなら間違いなく「無」である。

勉強、労働、ゴロゴロ。

僕は半年間これらのルーチンワークをただただ淡々と続けてきた。

「マイホビーイズゴロゴロ」を自称し、元々予定が無ければ、ほとんど家を出ることのない僕にとってこの生活は決して苦ではない。

しかし中国各地を転々とするホームレス旅を続けていた半年前との生活落差は凄まじい。

マイホームにどっぷりと浸っている今の姿を半年前のホームレスだった僕はすぐに信じることができないだろう。

何かが起きることが当たり前だった旅生活から何も起きないことが当たり前な家生活。

僕の生活はこの半年間で完全に「有」から「無」へと変わった。

無の生活へ変わったいま、ドキッとする質問がある。

「最近何してるの?」

友達から何気なくされるこの質問。

有の生活時であれば、特に考えることなくすぐに「旅してる」とでも言えるのだが、無の生活の今では若干の思考が必要になる。

「そういえば最近自分て何してるんだろう」

とりあえず最近やっていることを思い返して説明するけれど、どこか自信無さげになってしまう。

自分がやっていることを自信満々に説明できないというのは、自分の生活に100%満たされている訳ではないということの証拠なのだろう。

すっかり削りがいの無くなったシノギに関してもそうだ。

お金が増えているというのは、裏を返せばそれだけお金を使ってでもやりたいと思うことが減っているということだ。

世の中 楽しいことをするにはどうしてもお金が必要になる場合が多い。

今までの人生を振り返ってみても、本当に充実していたと感じる時期は必ずお金が減っている。

貯蓄の増加はワクワク度の低下なのである。

だがしかし前述した通り、僕はいまの生活が嫌いという訳ではない。

冷静に考えればこれまでの人生「無」であった時間のほうが圧倒的に多い。

いわば人生は「無」であるのが当たり前なのだ。

人生が「無」であることに絶望する必要は全くない。

「無」の時があるからこそ、「有」の時と現れる。

永遠に「有」の生活というのはある意味永遠に「無」であるのに変わらない。

当たり前の「無」を受け入れて、「有」の時を待つ。

そのくらいのモチベーションで日々を生きてゆきたいと常に思う。


僕は治験に落ちた

僕は治験に落ちた。

結果発表は入院予定日の前日だった。

入院者には予定日の1週間前から、いくつかの行動制限があった。

合格ありきの発表だと思っていた。

僕はこの1週間、治験候補者として恥じないような生活を送ってきた。

大好きなビタミン剤もカップ麺ぶっこみ飯もやめた。

酒の誘惑も自慰の誘惑も絶った。

全ては被験者として新薬の発展に寄与し、社会に貢献するためだった。

しかし僕は落ちた。

同じ事前検査を受けたS塚とT岡は合格した。

入院直前にも関わらず、大阪で飲み散らかしていたS塚。

普段から他人を殴り散らかしているT岡。

日本の創薬界を支える重要な治験に参加するべき人材とは到底思えない。

だが 合格したのは彼らだった。

詳しい理由は分からない。

ただ1つ分かることは僕の体には決して創薬界には関わってはならないと評価されるほどの重大な欠陥があるということだけだ。

その欠陥が何であるかを教えてくれる者は誰もいない。

受付おばさんもただ「他の方が合格しました」と伝えるばかりだ。

僕が治験に落ちたのはこれで3回目だ。

僕はこれまで治験に合格できるのは「日本社会に貢献したい」という信念のもと、常に自らの体と向き合い、理想の健康状態を維持する一流健康家だけだと思っていた。

今回の結果はそんな僕の慰めを完膚なきまでに打ち砕いた。

僕の健康状態は「中」ではなく「下」だったのだ。

僕が今回の治験で手にしたものはこの事実だけだ。

事前検査でもらった3500円はその日のうちに交通費と交際費に消えた。

僕にとっての今回の治験はただ東大宮まで行って「お前は不健康だ」と罵倒されるだけのイベントだったのだ。

それも不健康の詳細は伝えられることはなく。

こんなに不毛な出来事に出くわすことはそうそうない。

そんな僕が本ブログで伝えたいことがただ1つある。

「健康を大切にしよう」

せんりゅう

コロナなら

何をやめても

許される。

労働が

嫌なのではなく

人が嫌。

オスグット

どこにあるのか

わからない。

インドア人

常に生活

変わらない。

ゴロゴロゴロ

ゴロゴロゴロゴ

ゴロゴロゴロ。

世の中の

最たる恐怖は

正義の味方。

我が部屋に

湧き満つ謎虫

梅雨は近きか。

朝起きて

やることなくて

即二度寝。

おしり出す

意味は無いけど

おしり出す。

たにくしょくぶつ

          あつまれどうぶつの森

3月20日の発売以降、外出自粛の風にも乗り、あれよあれよと売り上げを伸ばし、もはやゲームの枠を越え、社会現象にもなっている。

数年前、某道ステーションの影響によってユーモアに自信のある学生たちが連呼していた「アツモリ」という言葉も今では「あつまれどうぶつの森」の略という意味に変わりつつある。

そんな「あつまれどうぶつの森」の人気を支える要素の一つにプレーヤー自身が家具や道具を作るDIYというものがある。

「あつまれどうぶつの森」は何もない無人島を一から開拓するという点を重視しているため、家具や道具も主に自分で作ることを推奨しているという訳だ。

「釣竿から丸太まで」という言葉に代表されるようにこのDIYで作れるものは多岐に渡る。

家のローンの支払い、島に建物を作るための費用、はたまた住人の勧誘。

スローライフを謳うゲームとは思えないほど、殺伐とした現実世界さながらに金銭を要求する本ゲームにおいて、必需品を自分で作ることのできる機能はとてもありがたい。

しかしこのDIY 何も有用なものばかり作るための機能ではない。

その利便性と素材活用精神が、時に人知を越えた紛れもない恐怖を生み出してしまうことがある。

          「たにくしょくぶつ」

雑草20本と空き缶1個という質素な素材で作ることのできるこの「たにくしょくぶつ」、ゲーム序盤から作れることもあり、とりあえずというノリで1度は作ったことのあるプレーヤーも多いはず。

宣材写真も意外と綺麗にまとまっており、観葉植物的な雰囲気を醸し出している。

いや おかしい。おかしすぎる。

なぜ空き缶に草を刺しただけでいい感じになるのか。

現実の草どもはこんなに色彩豊かなのか。

そもそも「たにく」ってなんだ。

僕の頭はすぐさま疑問で沸騰した。

ただしかし日本に社会現象を巻き起こしたゲームの中で、堂々とインテリアの一つとして鎮座するこの「たにくしょくぶつ」。

もしかすると想像の世界では表現することのできない魅力が隠されているのかもしれない。

ゲームはリアル リアルはゲーム。

ゲームの疑問はリアルにしなければ理解できないのかもしれない。

僕は実際にこの「たにくしょくぶつ」を作ってみることにした。

「たにくしょくぶつ」を作るにあたって一番重要なのはやはり雑草だ。

材料や工程の少ない「たにくしょくぶつ」作りでは、雑草の質こそが「缶に草を詰めた物体」と「たにくしょくぶつ」との違いを生み出すのだ。

僕は雑草を探すために早速、不草不急の外出を行うことにした。

外出前は雑草の生い茂る場所に今一つ心当たりがなかったが、道端によく目を凝らして歩いていると、街路樹の周りなど至るところに雑草が生えていることが分かった。

この世は雑草天国なのだ。

これだけ僕たちの身の回りに溢れているのに、普段全く日の目を見ることもない。

挙げ句の果てには「雑な草」と呼ばれる始末。

彼らの日々の不遇は察するに余りあるものであった。

「彼らに少しでも光を当てなければならない」

僕は「たにくしょくぶつ」ブームを現実化し、彼らの不遇の日々を終わらせる使命があると感じた。

雑草たちの不遇の日々に思いを馳せる僕

「雑草選びがたにくしょくぶつを支配する」

雑草には様々な種類がある。

その日その日のコンディションに合わせて的確な雑草選びをしなければ、良い「たにくしょくぶつ」を作ることはできない。

さらに並大抵の覚悟では雑草魂を持った彼らを引き抜くことは容易ではない。

吟味と格闘を重ねること数分、僕はついに良質な雑草を手に入れることに成功した。

良質な雑草には良質な空き缶を。

雑草が輝く最高の舞台を提供してくれるのが空き缶だ。

僕は雑草を極立たせるために、質素なデザインの角ハイボールを採用した。

あとに待つのは雑草と空き缶の夢のコラボレーション。

僕は自らの芸術センスを信じて、缶に草を盛りつけていった。

盛りつけること約1分。

ついにリアル「たにくしょくぶつ」が完成の時を迎えた。

僕はそっと草を抜き、ゴミ箱へ捨てた。

この1日はもうなかったことにしよう。

正論への怒りと受容

「民度」

ここ数日この言葉は僕を大いに悩ませた。

きっかけは某フリマサイトでのこんなコメントだった。

民度? 様無し? 字の汚さ?

は?

何を言ってるんだこいつは。

まず宛先の件。

僕はこれまでフリマサイトでの発送で宛先の「様」を書き忘れたことは無い。

ただしかし、1日の発送数が多いため、書き忘れていないとも言いきれない。

たった300円の商品が入った手に取って10秒で破り捨てる封筒に「様」が書いていなかったため、憤慨し評価を下げるほど気分を害したのならもちろん謝罪する。

ただそれなら「様が書いていなかったです。気をつけて下さい」と一言メッセージを送ってくれれば済む話じゃないのか。

なぜ「字の汚さ」と「民度」という言葉が出てくるのか。

字が汚いと言えど少なくとも送った商品はお前様の所にたどり着いた。

宛先というのは郵便局員様が分かるように書くものである。

宛先の字がどうだろうと郵便局員様さえ理解できれば何の問題もないはずだ。

つまり宛先というのは郵便局員様に向かって書いているものであり、お前様に向かって書いているのではない。

よってお前様が僕様の字の良し悪しについて語る資格は元々無いはずなのだ。

にもかかわらずこいつ様は僕様の字を批判するに留まらず、「民度」という概念まで持ち出してきたのだ。

お前様はなぜ一度も会ったことのない人様の民度が文字を見ただけで分かるのか。

人様の民度にそこまで敏感なのになぜ最も民度の低いといわれる無料フリマサイト様に重鎮しているのか。

だいたい最低価格の300円の商品で不特定多数の見る評価欄に適当な根拠で人様の民度について語るお前様の民度はいかほどなのか。

僕は怒りに震えた。

なぜこんな評価を受けなければならないのか。

毎回わざわざ手書きで一生懸命宛先を書いているのに。

怒りを消す一番の方法は忘却だ。

僕は可能な限り評価欄を見るのを止め、この理不尽を忘れることに努めた。

「字の汚さも相間って民度の低さが伺えます。」

別の購入者に宛名を書く時、いきなり「半額にしろ」と詰め寄る訳のわからない値下げ要求をされた時、はたまたニュースで飲食店に次々と自粛要求の紙を貼る自粛警察の様子を見た時。

そんな何気ない瞬間にあの言葉は餌が来た時にだけ水面に現れる気味が悪い鯉の群れの如く僕の脳裏に浮かんできた。

忘れたいのに忘れられない。

なぜ僕はたった一人のフリマサイトのユーザーが発した言葉に悩まされているのか。

夜はぐっすり眠り、朝昼夜しっかり食事をとって考え続けた後、僕はあることに気づいた。

あの言葉は正しい

人が一番怒りを覚える瞬間とは何か。

それは相手の指摘が図星の時である。

冷静に考えれば僕の字はとてつもなく汚い。

僕の平均字

少なくとも僕は自分への宛名がこの字だったら汚いと感じる。

これまで一切の苦言を呈することなく僕に良い評価を与えた人々たちも僕の字に関してきれいか汚いかと問われていたら、汚いと答えるだろう。

そして正しい指摘をした人に対して、その人のコメントを個人ブログに晒し、反論しようとする僕の民度は間違いなく低い。

もしこのブログがあの人の目に留まれば、間違いなく「字は人を語る」という価値観の更なる根拠となるに違いない。

こうしてあの言葉の正しさに気づくと、これまでの苦悩が嘘のように僕の怒りはスーと消えていった。

あまりにも正論過ぎる指摘を受けた時、人は現実を受け入れることができず、論点を反らし、やみくもに怒りをぶつける。

怒りを覚えた時こそが自分を見つめ直す良い機会なのかもしれない。



マスク作りの持つパワー

マスク不足。

この言葉が世間を賑わせるようになってからどれだけの月日が経っただろうか。

街にはマスクを求め集まる人が溢れ、ネットには製造地不明の高額なマスクが溢れ、といった具合に依然としてマスク不足の現実は続いている。

森羅万象担当大臣安倍晋三氏渾身のマスク配布作戦も不良品が多く混じるなど根本的な問題解決に寄与しているとは言い難い。

そんな中、巷では今世紀最大と言えるであろうマスク作りブームが訪れている。

#手作りマスクや#マスク作りとひとたび検索をかければ、時間と自己顕示欲をもて余した人々たちによる自信の作品たちが画面を多い尽くす。

マスクが無いなら作れば良い。

石油が無いなら作れば良いといった具合で石炭から石油を作ろうとしていた戦時中を彷彿とさせるような日本の代用精神は今もなお脈々と受け継がれていたのだ。

それにしても老脈男女をこれほどまでに熱狂させるマスク作りとはいったい何なのか。

彼らは単に「マスクが無いから」という固定観念に縛られ、半強制的にマスクを作っているのか。

はたまたマスク作りに人々を興奮させる強烈な魅力が存在するのか。

家庭科の授業以来一切裁縫に触れていない僕の想像力では「マスク作り」が生み出す化学反応が何なのか全く分からなかった。

想像できないなら創造しろ。

某有名動画配信者が以前語っていたこの言葉のように、世の中には当事者にしか理解し得ない感情がある。

実際にマスクを作ってみれば、マスク作りが持つ力を理解できるかもしれない。

こうして僕はマスク作りを始めた。

マスク作りに必要な物は布、ヒモ、針、糸とそれほど多くはない。

僕はまずメルカリにて600円で購入した正体不明の白い布を裁断し三つ折りにした。

マスク作りのサイトには横57cm×縦21cmで裁断すると書いてあったが、生地の長さが縦30cmだったため、9cmという微妙な長さの生地が余ることを嫌い、縦の長さの調整を怠った。

まあ僕は顔がデカいから大丈夫だろう。

#デカさは強さ

この怠惰が後に大きな悲劇を呼ぶこととなる。

次に左端と右端を2cm折り、縫い合わせた。

文章にすればたった一秒で終わるこの工程も裁縫不足の僕にとっては永遠に感じるようなものであった。

固すぎる布

たま結び失敗による糸のすり抜け

原因不明の絡まり

針の紛失

目立つ縫い目

なぜ人々はこんなにも面倒な作業に熱中するのか。

当時の僕には全く理解することができなかった。

こうして悪戦苦闘すること1時間、ようやく両端を縫い合わせることに成功した。

あとはヒモをつけるだけ。

あいにく僕はこの時マスクのヒモを切らしていたため、使い捨てマスクのヒモを切って用いることにした。

マスクを使ってマスクを作る。

マスク不足の解消には全く寄与していないこの方法だが、ただマスクを作りたいだけの僕にとっては何の関係もない。

僕が解消したいのはマスク不足ではなく、マスク作りの持つパワーを理解できないということから端を発するストレスだ。

つまりハンドメイドマスクパワーをノットアンダースタンドなのがストレスフルなのだ。

そんな訳で僕は使い捨てマスクのヒモを左右四ヶ所に縫い合わせ、初めてのマスクを完成させた。

デカい。 明らかにデカい。

布マスクは洗う度に縮むため、大きめに作ったほうが良いという定説があるが、それを考慮してもこのマスクはデカ過ぎる。

21cmという推奨を無視したことが大きな仇となった。

仮に政府が配布していたら間違いなく暴動が起きるレベルのサイズである。

試しにこの状態で近所を歩いたところ驚異の2度見率50%超えを獲得した。

これはコスプレ時の2度見率に匹敵する高い数字である。

色も形も均一化された市販マスクでは決してなし得ない結果であろう。

僕は手作りの持つパワーが何たるかをようやく実感したような気がした。

手作りマスクは自由度が高い。

布もサイズもカラーも作り手の思うがままだ。

数多くの楽しみが消えた殺伐としたご時世では、マスク作りが気軽に自らの個性を出せる自由度の高いコンテンツとして人気を博しているのだろう。

単に生活必需品製造に留まらず、作り手の創作意欲も掻き立てる。

これこそがマスク作りの持つパワーだと僕は感じた。

PS 僕の作ったマスクは着用2日目でヒモが外れた。

答え合わせ

#ペスト医師#中世ヨーロッパ#ペスト#先輩#パンデミック#致死率60%#死者数2億人#北里柴三郎#発見#過去の病気ではない#死神#歴史#ロマン#歴史秘話ヒストリア#マスクがないならペストマスク#マスク男子#恐怖#怖さと面白さは紙一重#ペストに負けるな#おうち時間#うちですごそう

国民的アニメに潜む陰謀~はぐしちゃおと西洋諜報機関~

今年1月の発生以降猛威を振るい続ける新型コロナウイルス。

世界での感染者数は既に170万人を越え、各方面への影響も計り知れない。

我が国日本にとってもこの窮状は例外ではなく、先日緊急事態宣言が出されたのを皮切りに、国全体にかつてないほどの緊張が走っている。

その一方で発生地である中国にほど近く、2月上旬から感染者が出ていたのにも関わらず、比較的感染のピークを遅らせた日本の対策を評価する見方もある。

この要因は諸説あるが、その1つに日本人の衛生意識の高さが指摘されている。

「日本人は西欧人のように挨拶代わりの握手やハグをしない。」

他国のような強権的な政策を行っていないにも関わらず、比較的感染者を抑えることに成功していることを考慮すると、この説には一定の信憑性があると私も感じる。

しかし遡ること約15年ほど前、この日本を救った公衆衛生の意識を破壊しようとする危険な動きがあったことを皆さんはご存知だろうか。

まずはこの曲をお聴き頂きたい。

この曲は2005年から国民的アニメ「ドラえもん」のオープニングに使われた「はぐしちゃお」である。

歌詞の中心部には

はぐしちゃお はぐしちゃお

大人も子どももはぐしちゃお

はぐしちゃお はぐしちゃお

犬にも猫にもはぐしちゃお

といった「人と人との接触を8割減らす」という現在の考えとは真っ向から反する価値観が語られている。

それまでのドラえもんのオープニングは「あんなこといいな♪できたらいいな♪」でお馴染みの「ドラえもんの歌」が約20年ほど使われていた。

すっかりお茶の間に馴染んだ「ドラえもんの歌」を切り捨て、日本人に全く馴染みのないバグを強要する「ハグしちゃお」を起用するという手法には強い疑問が残ると言わざるを得えない。

なぜ「ハグしちゃお」がドラえもんの主題歌となったのか。

そこには数十年後を見越した危険な陰謀が隠されていると私は考える。

西洋諜報機関によるハグ文化定着を足掛かりとした国力低下工作

日本は時にこう呼ばれることがある。

「スパイ天国」

ひとえにスパイ防止法が存在せず、仮にスパイ行為が発覚しても重罪を課されることが無いということがこの不名誉な名称に繋がっている。

それゆえに日本では第二次世界大戦後からアメリカを筆頭に様々な国家のスパイたちの温床となってきた。https://diamond.jp/articles/amp/213851?page=2&skin=amp&device=smartphone&display=b

戦後急速な経済発展を遂げ、西洋諸国をも脅かす存在となった日本を機密情報と妨害工作によってコントロールするのは彼らにとって重要課題であったに違いない。

先ほど掲載したリンクの情報が正しければ、政界から経済界はたまたエンタメ業界まで、西洋諜報機関が多くの役割を果たしてきたのは確かである。

しかしそんな西洋諜報機関をもってしても崩すことのできなかった概念がある。

「公衆衛生への意識」

終戦から現在まで日本は多くの分野において進歩的、開明的と称して西洋の考えや流行を取り入れてきた。

ある者は常々西洋的な生活を自慢し、またある者は西洋と日本の違いを日本の劣等性と捉え、批判を続けてきた。

そんなすっかり西洋かぶれした日本において唯一といっていいほどに浸透しなかったのが衛生観念に関係する文化である。

握手やハグ、そして土足へ家に上がるといった西洋では当たり前のように存在する文化。

どれも日本では「汚い」「気持ち悪い」といった理由で浸透することは無かった。

これらの衛生意識の高さは思うが儘に日本を管理してきた西洋諸国にとってはさぞかし歯がゆいものであったに違いない。

またそれと同時に衛生意識の高さを問うような世界規模の災難が起きた場合に日本の一人勝ちを許してしまうのではないかという危機感を募らせるに十分なものであっただろう。

いかにして日本人の衛生意識の高さを崩していけば良いのか。

特にバブル経済が崩壊し、経済面において日本が脅威でなくなった1990年代後半以降にはこの問題に関する議論が盛んに行われていた可能性が高い。

「握手はあいさつ」「ハグはコミュニケーション」

彼らは薄っぺらい標語を使い日本に濃厚接触文化を根付かせようと試みた。

しかし西洋かぶれしたうさん臭い中年の言葉に耳を傾ける者は多くはなく、時間だけがただただ空しく過ぎていった。

そんな時彼らが目をつけたのが国民的アニメ「ドラえもん」であった。

「アニメキャラを通じてハグ=友好の証という印象を子供たちに植え付ける。そしてハグは素晴らしいものという価値観を持って成長した子供たちが十年後若者の最先端の文化としてハグを広める。」

ざっと彼らの計算はこんなところであろう。

2005年4月「ドラえもん」はリニューアルと称してキャスト、画風、そしてオープニングを一掃した。

キャストの高齢化や時代に合わせた画風の変化は理解できるものも、オープニングに関しては、

アニメ版「ドラえもん」において歴代オープニング曲のタイトルに「ドラえもん」という名称が使われていないのはこの「はぐしちゃお」のみである。

国民的アニメのリニューアルのオープニング曲という重要な局面に日本人にとって馴染みの浅いハグを全面的に推し出す曲の選出は不可解である。

私はこの「はぐしちゃお」の選出過程において西洋諜報機関が何らかの形で関わっていたと考える。

先述のリンク先には西洋諸国の諜報員は日本の様々な大企業に属しているという記述があった。

産業スパイの目的の一つに「利益追求の目的達成を阻害したり、その機能を破壊する行為」があるということを考慮すれば、

従来の慣習通り「ドラえもん」というタイトルが入ったオープニングを採用するという「目的」を大企業に潜む諜報員がハグ文化推進のために「破壊」した可能性も大いに考えられる。

さらに西洋諜報機関の影響を示す根拠はこの「はぐしちゃお」の曲そのものにも強く表れている。

はぐしちゃお はぐしちゃお

大人も子どももはぐしちゃお

はぐしちゃお はぐしちゃお

犬にも猫にもはぐしちゃお

互いにハグをする愛くるしいキャラクターと共に「はぐしちゃお」というフレーズ繰り返し、子どもたちの脳の中に刷り込む。

明らかに洗脳だ。これを洗脳と呼ばずして何を洗脳と呼ぼうか。

これを聞いた無知な子供たちは「ドラえもんがやってるから正しいことなんだ」と考えるようになってしまってもなんらおかしくはない。

またこの曲の中心である「はぐしちゃお」というフレーズにも西洋諜報機関の特徴が存在する。

この曲はあくまで「はぐをしろ」という命令形ではなく「はぐしちゃお」という自発系を使っている。

先述のリンクに諜報機関の特徴としてこのようなことが書かれていた。

「脅迫をするのではなく、そこを突破口にして、あくまで自発的に協力をしてくれるように仕向けていくのだ。」https://diamond.jp/articles/amp/213851?page=2&skin=amp&device=smartphone&display=b

「ハグしろ」ではなく「はぐしちゃお」強要ではなく自発。

やらされるものというイメージの強い「ハグ」ではなく自分でもできそうと感じられるような柔らかイメージの「はぐ」

自発的に「はぐ」をするように仕向ける諜報機関特性がはっきりと表れている。

以上の根拠からも分かるように、この「はぐしちゃお」は明らかに西洋諜報機関によるハグ文化推進を睨んだプロパガンダである。

彼はこのハグ文化推進を足掛かりにして、様々な西洋不衛生文化を浸透させ、日本人の衛生意識低下を目論んでいたのである。

幸運なことにこの忌々しきプロパガンダソング「はぐしちゃお」はわずか2年でドラえもんのオープニング曲の座を失い、日本にハグ文化が大きく広まることは無かった。

一見自然発生のように見える流行や習慣の登場の裏には様々な機関の思惑が存在するということが世の中には多々あるのだ。

僕はうんこを漏らした

僕はうんこを漏らした。

漏らすつもりは全く無かった。

ただの放屁のつもりだった。

ほんの少しの油断だったんだ。

牛乳を飲み過ぎた。

牛乳飲み過ぎは漏らしの始まり。

あの忌々しき禁酒会でそう学んだはずだった。

いつものようにベッドに横たわって映画を観る。

ふいに襲いかかる便意。

どうせ放屁だろうという油断。

機能しない肛門筋

       ブスーーーブリュリュリュリュリュブ!!!

漏れた。

私の生きた証