先日 僕は21歳の誕生日を迎えた。
誕生日は誕生日でなかなか素晴らしい出来事がたくさんあったのだが、
どれもこれも素晴らしすぎて、
ブログ向きではないので、
今回は全て割愛させていただく。
ではなぜ今回 わざわざ誕生日であったことを報告したのかというと、
誕生日を迎えたことによってある恐ろしい事実が浮かびあがっていたことに気づいたからだ。
それは誕生日を迎えたことでまたひとつ
「おじさん」に近づいてしまったということだ。
世間の「おじさん」への風当たりは常軌を逸するほど冷たい。
最も公正とされるGoogleで「おじさん」や「中年男性」と検索するとこうなる。
ひどい。ひどすぎる。
ちなみにおばさんだとこうだ。
何という違い。
この国では「おじさん」というのは存在しているだけで場の空気を乱す害虫として扱われるのだ。
僕はこれらの記事を全て読んだ。
もちろん 「おじさん」擁護派の僕ですら
気持ち悪いと思う内容もいくつかあったが、
その多くは男子大学生たちがやっていてもおかしくないような内容だった。
確かに近年は下記のような「おじさん」によるデリカシーのない発言が世間を賑わすことが多い。
https://twitter.com/wonna57716011/status/1120340900343734272?s=19
実際 僕もこうした「おじさん」たちの時代遅れな発言や思考はもちろん批判されるべきだと思う。
しかしここで納得いかないのが、
こうした一部の「狂ったおじさん」たちのせいで、
最初の写真のような歪んだ「おじさん」イメージが作られてしまうことだ。
「おじさん」にもいろんな種類がある。
こうした「狂ったおじさん」たちが社会を賑わすということは裏を返せば、
大多数の「おじさん」は家族や自分のために真面目に働いて生きているということだ。
そうした「真面目なおじさん」たちは、
「狂ったおじさん」たちのせいで作られたイメージのせいで、
真面目に生きているのにも関わらず、
常に肩身の狭い思いをしている。
狂った「おじさん」の中には、
真面目に生きていても報われない「おじさん」の宿命にやけになって内なる狂気を解き放った者もいるかもしれない。
もちろん元をたどれば、全て「狂ったおじさん」が悪いし、
こいつらが自分の年をわきまえて行動すればいいだけの話ではある。
ただ、これまでどの年代にも「狂ったおじさん」が一定数いたことを考慮すると、
「狂ったおじさん」そのものがいなくなるということはないだろう。
そういった時に「おじさん」そのものを忌避するのではなくて、
「おじさん」一人一人を正当に評価する世の中になるべきだと思う。
世の中まだまだ「真面目なおじさん」たちを中心に動いている。
いくら男性中心の社会を批判したいからって、そうした「真面目なおじさん」たちまで叩くのは明らかに間違ってると思う。
僕が「おじさん」になるまでに、少しでも「おじさん」の地位が上がってますように。