常識を疑え ~ 定期券は本当に必要か ~

毎日上京してしまうほど、上京をこよなく愛する僕たち通い大学生には必需品がある。

横浜の方言で定期と呼ばれるプラ切れだ。

このプラ切れがあると、一定期間 鉄のかたまり(以下かたまり)に乗り放題となる。

僕は NO steel Yes life を自称し、ほぼ毎日欠かさずこのかたまりを指名し乗り続けてきた。

しかしこのかたまりを定期指名するには多額の貢ぎが必要である。

確かに快楽のためには犠牲が不可欠だ。

これまで親の金を使ってまで一方的に貢ぎ続けてきた。

貢ぐことによって一定の快適さを手に入れた。

同時に勤務時間終了に伴う乗り損ねからの欲求不満。

そしてなにより正乗機会減少による快適さの喪失。

以上を考慮した際に明らかにパフォーマンスの低下がみえるかたまり。

本当に貢ぐことだけが愛なのだろうか。

そこにあるのは虚無感だけではないだろうか。

そう考えているうちに僕はこれまである乗り物に無償の愛を提供し続けていることに気づいた。

彼だ。

7歳の時彼に出会ってから僕は来る日も来る日も無償の愛を与え続けてきた。

しかし毎日上京生活を続けていくうちに、彼の筋力不足を痛感し、かたまりに浮気するようになってしまった。

筋肉がないならつければいい。

彼をガチムチにするのは僕の使命だ。

そう考えた僕は実際に彼を使い上京することにした。

当初、歩いて上京したこともある僕にとっては容易い挑戦だと思っていた。

しかし歩道橋という思わぬ落とし穴があった。

歩いている時にはただの階段でしかなかった歩道橋。

彼をお姫様抱っこして登るのは思ったより、きつい。

かたまりに比べればヒョロガリでしかない彼だが、目の届かないところで強くなっていた。

そうした苦難を乗り越え、大学にたどり着いた。

時間はかたまりを使った時の2倍 3時間が経過していた。

往復で6時間。

つまり1日の4分の1を彼に捧げたことになる。

時は金なりの理論で考えると、毎回かたまりの時よりも3時間 3000円多く貢ぐことになる。 

これまで無償だと思って捧げてきた愛は実はただの貢ぎだったのである。

このことに気づいた僕には強い怒りがわいてきた。

彼は無償の愛を受けるかのようにみせかけて、有償の貢ぎをだましとっていたのである。

かたまりはそんなことをしない。

一定額貢げば必ず快適な移動を提供してくれる。

もはやこれは貢ぎではなく投資である。

僕はかたまりに投資し、かたまりは僕に快適な移動を与える。

こんな素晴らしい交易関係を僕は一方的に捨てようとしていたのである。

これがもし外交で行われていたら、即戦争に発展するほどの問題であろう。

この事実に震えた僕はすぐに契約更新に急いだ。

これからよろしくお願いします。定期券様。

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