今日は何の日?

みなさんは本日11月22日が何の日か知っていますか?

いい夫婦の日と答えたそこのあなた!

そんな常識的な答えでは一生独身確定です。

本日11月22日はボタンの日なのです。

なぜボタンの日なのかって?

日本釦協会・全国ボタン工業連合会等が1987(昭和62)年に制定。

1870(明治3)年のこの日、金地に桜と錨の模様の国産のボタンが海軍の制服に採用された。

http://www.nnh.to/11/22.html

とのこと

ちなみにいい夫婦の日の制定は1988年のため、

ボタンの日のほうが長い歴史があるのだ!

いい夫婦の日を祝うためレンタル彼女を雇って夫婦になりきろうとしていた僕だったが

ボタンの日が持つ歴史に衝撃を受け急遽ボタンになりきることに決めた。

早速この格好で大学に乗り込むと、毎日私服コスプレ勢がこう聞いてきた。

今日は何のコスプレ?

ここですぐに答えを出すのは無粋なので

僕は 今日は何の日か? という最大のヒントを与える。

すると奴らはあろうことか夫婦の日と答えた。

ありえない。

独身のお前らに夫婦なんて関係ないだろ。

それよりも毎日寄り添ってるものがあるだろ。

ボタンのことを忘れるべからず。

僕はいつか11月22日がボタンの日ということが世間に認知され

皆がそれぞれ自分が思うボタンのコスプレをして街を歩きボタンに感謝するという日になったら素敵だと思う。

来年の今ごろは留学先の北京でボタンになりきろう。

いつかボタンの日が革命を起こすことを信じて

常識を疑え ~ 見た目がヤバい奴は本当にヤバいのか ~

皆さんはこの集団のことを知っているだろうか?

彼らは15年ほど前に世間を席巻したパナウェーブ研究所という新興宗教団体である。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/パナウェーブ研究所

彼らはこの世のあらゆる不都合を共産党員が流すスカラー電磁波によるものと位置付け、

スカラー電磁波から身を守るためには白い服を着ることが有効として全身を白装束で固めた集団である。

彼らは外見においてはこの流行を超越したファッション

内面においては多摩川のタマちゃんに餌をやるといった慈悲の精神http://denpa.s31.xrea.com/x/event/pana.html

と見た目と性格の良さを兼ね備えた集団であったため、

彼らとは正反対の性質を持つメディアの嫉妬に合い、奇怪な集団として過剰な報道を受けた。

彼らは白装束で移動したり、タマちゃんに餌をあげただけで、

何の根拠もなく某ム真理教のような危険組織として取り上げられたのである。

もちろん彼らはそうした危険組織とは無縁で、

そのことが判明するとメディアは何事もなかったかのように彼らへの報道をやめた。

しかし何も危険なことをしていないのに、危険組織のような扱いを受けた信者たちの心は傷ついたに違いない。

僕は彼らのエピソードを知って強いショックを受けた。

そこまでして彼らが伝えたかったことを知るためには実際に彼らになりきるしかない。

こうして僕の1日パナウェーブ研究員生活が始まった。

始める前はスカラー電磁波の存在に対して半信半疑だった僕だったが

実際に白装束をしてみると

スカラー電磁波を遮ることに成功したからか

いつもよりも風通しが良くなってとても快適だった。

やはり白装束の力は偉大だ。

研究員たちが白装束に傾倒したのも頷ける。

僕は白装束の効能を実感し、意気揚々と電車に乗り込んだ。

しかしそこにあったのは

異質な見た目をした者に対する社会の厳しい視線だった。

僕はいつものように座席に座っていた。

すると前に座った女性が僕と目があった瞬間、 どこかへ立ち去っていったのだ。

当初 ほかにいい席があったのだろう ぐらいの考えであった僕も

こうした立ち去りが1回だけでなく2回 3回と続くと

白装束が立ち去りの原因であることを確信した。

確かに白装束が某ム真理教のような危険組織を連想させるという考えは一理ある。

しかしここで一度冷静になって考えて欲しいのは

信者たちが地下鉄にサリンを撒いた時、彼らは白装束であったかどうかだ。

答はもちろんNOだ。

彼らは一般人と何ら変わりのない服装をしていたのだ。

この例からもわかるように本当にヤバいことをしている奴は

派手な格好などしない。

常に包丁を持って歩く殺人鬼がいるか?

そんなことをしたらすぐに国家権力に捕まるのがオチだ。

人を見た目で判断するのは愚の極みだ。

本当にヤバい奴というのは何食わぬ顔で普通の服装をして街に紛れこんでいるのだ。

これこそが パナウェーブ研究所が研究所生命をかけてまで伝えたかったことなのではないか。

僕たちはもう一度本当に危険な存在が誰なのか真剣に考える段階にきていると強く感じた1日研究員生活であった。 /p>

もはや横浜でマウントはとれない

出身地

初対面であれば必ず一度は使われるこの話題。

相手に馴染みのある場所や都会であることで話を有利に進めることができる。(通称マウントをとる)

神奈川出身の僕はこれまで横浜駅付近出身なことを利用してマウントを取り続けてきた。

というのもこれまで出会った人間の多くは神奈川県民。

彼らにとって横浜駅は世界の中心と言っても過言ではない。

遊ぶのも横浜 買い物するのも横浜 乗り換えするのも横浜。

なので僕はこれまで横浜駅付近出身と言う度に、「めっちゃ便利だね」「よく遊びに行く」
などといった好意的な反応をもらっていた。

こうして横浜出身というプライドはますます肥大化し、僕は横浜駅こそが日本の中心と信じて疑わなくなっていった。

                

しかし大学入学後、状況は大きく変わった。

もちろん大学には日本中から学生が集まっている。

その中には僕の想像を遥かに越える都会人も存在した。

まず僕が彼らに横浜駅付近出身であると伝えると、

やや余裕を滲ませた口調で「行ったことある」という反応や

「へー」のような特に興味を示さないといった神奈川ではあり得ない反応が返ってくる。

なんだこいつらは

それほど自分の出身地に自信があるのだろう。

そう確信して僕は彼らに出身地を問いただした。

すると新宿のあたりと答える。

「近くていいね~」
僕はそのくらいの反応しかできなかった。

というのも入学当初、僕の新宿に対する知識は大学までの通過駅というくらいで全く具体的なイメージはなかったからだ。

横浜駅というワードに一切恐れをなさない彼らが住む新宿とはなんなのか?

西口と東口の両方に繁華街を持つ横浜駅に勝てる訳がない。

そんな甘い考えで僕は人生で初めて新宿に乗り込んだ。

衝撃だった。

360度きらめくネオン 数えきれない出口の数

多種多様な人種 どこまでも永遠と続く活気

ここには全てのものがつまっていた。

世界の中心とはこういう場所のことを指すのか

僕は完全に井の中の蛙だった。

日本にはこんなにも栄えている場所があるのだ。

これまで横浜駅付近出身であることを誇ってきた自分が急に情けなくなってきた。

またそれと同時にまさしく世界の中心とも言える’新宿’に住んでいるやつらに対する畏敬の念が沸いてきた。

彼らはいったい何者なんだ?

そりゃ生まれた時から世界の中心をみてきたら横浜になんて反応するはずがない。

彼らにとって横浜の繁華街などただのおままごとに過ぎないのである。

世界の中心で飯を食い、世界の中心で遊び

そして世界の中心で愛を叫ぶ

そんな世界の中心に住める彼らの幸運を羨ましがらずにはいられない

 

他方 当初新鮮さを感じていた長距離通学も年月を重ねていくにつれて、

あまりにも無駄が多いと感じるようになった。

その時ふと浮かんで来たのは新宿住みの存在である。

彼らは僕が1限のために電車に乗っている間、

25駅の各駅停車地獄の終電に乗っている間、

おそらく寝ている。

僕が毎日通学に使っている3時間を丸々自由時間にすることができる。

しかも彼らは独り暮らしとは違って実家であるがゆえに学生の溜まり場になることもない。

ふざけてる。

生まれた場所が違うだけじゃないか。

何でこんなにも不平等なのか。

自転車通学? 早稲田住み? 

ふざけんな。

一度新宿を更地にして、土地を奪い合うバトルロワイアルを開催して欲しい。

お前らの住んでる場所はそれくらい価値のある場所だ。

ただこうして嫉妬をしていても仕方ない。

僕は以上の理由を使って真剣に新宿移住を両親へ提案した。

結果は惨敗だった。

僕がいくらなぜ都内で働いているのに都内に住まないのか問ても

両親はお金がない ローンが残っているの一点張り。

どうせならもういっそ田舎に住んでしまえばいいのに、

中途半端に便利な場所を選んでしまうのがなんとも悲しい。

僕は横浜に住むことによってお金以外のもっと大事なものを失っている気がしてならない。

サイゼリヤ西早稲田店にも頻繁に家族連れが訪れる。

彼らが後々新宿住みとしてマウントを取ってくるのかと思うと虫酸が走る。

しかしこればかりは目先の利益に囚われなかった親たちの先見の明を誉めるしかない。

このように新宿に住むというのは利便性を極めている。

大学や職場は近いし、遠出したいと思えば世界の中心なので、すぐにどこにでも行くことができる。

ああ もう横浜では満足できない。

実家が新宿にあればどれほど幸せなことか

来世の第一希望は新宿住みしかありえない。


常識を疑え ~飲み会に酒は必要か~

                 

                       飲み会

この単語を聞いたものの多くはアルコールをイメージする。

確かに現在多くの飲み会ではアルコールがつきものである。

僕はそこに大きな疑問を抱いた。

なぜアルコールが存在しているのか。

もともと飲み会の最終的な目的は楽しむことである。

つまり楽しければアルコールなど全く必要ないはずなのである。

またアルコールは体に悪い。

少しだけなら問題ないと言っている輩もいるが、脳ミソまでアルコール漬けにされたアル中の虚言である。https://nazology.net/archives/21781?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

さらにこのアンケート結果からも多くの人間がアルコールのなかった10代を人生のピークとしてとらえている。http://news.livedoor.com/lite/article_detail/10763185/

以上の例からも楽しさにアルコールは関係がないといえる。

理論はそろった。

あとは実践あるのみ。

こうして僕たちは本当にアルコールが飲み会に必要なのかどうか検証するために

アルコールの欠点である健康面を考慮し、牛乳で飲み会を行うことにした。

これだけ買っても1人400円

破格だ。アルコール飲み会では考えられない。

飲み会といえば乾杯。

元々乾杯とは慶事や健康を祝い、あるいは祈り、さかずきをあげて飲みほすことである。

ただの飲み会を始める合図ではないのだ。

僕たちはバナナ配布の成功と牛乳による筋力増強を祝って乾杯した。

https://dobunezumidesu.hatenablog.com/entry/2018/11/17/125718


アルコールのイッキ飲みはしばしば危険行為という扱いを受けているが

どんな液体でもいきなり1リットル流し込めばそれなりにキツい。

イッキ飲み防止連絡協議会はアルコールだけでなく全ての液体に協議対象を広げるべきである。

数分後だった。

突如強烈な母性本能が僕の体を襲い、気づくと口から大量の牛乳を絞り出していた。

ワインを大量摂取した際も醸造家の魂が乗り移り、口がワインサーバーになったことがあった。

しかし今回は軽い気持ちでワインサーバーになってしまったことによる虚無感に襲われることもなく、

むしろ牛乳を絞り出すことによって、母になったという強い喜びが僕の中から牛乳とともに吹き出しきた。

やはり牛乳は偉大だ。

話を戻そう

乾杯を終え、母になった喜びに高揚が止まらない僕たちは飲み会の定番であるゲームを始めた。

楽しい。

当たり前だ。

楽しさが全てのゲーム界で何十年にも渡って受け継がれてきたゲーム。

アルコールなくなったくらいでつまらなくなるはずがない。

途中何度も母性本能に目覚めたものもいたが

飲み終えた後に現れたのは酔いつぶれた惨めな姿ではなく、達成感に満ちた誇らしげな姿だった。

この時僕は飲み会にアルコールは必要ないと確信した。

いつか皆がアルコールに頼った楽しさが見せかけでしかないことに気づくことを願って。

参考文献

https://dobunezumidesu.hatenablog.com/entry/2018/10/19/171040

!– /wp:paragraph –>

ばなな

わたしはばなな

1本たったの20円

だけどもらった人は大喜び

普段20円もらっても喜ばないのに

あ 困ってる人もいたかな

そんなことどうでもいいか

https://dobunezumidesu.hatenablog.com/entry/2018/11/17/125718

みんなわたしを受けとるとすぐに脱がそうとする。

寒いから皮を着てるのに

ここはフィリピンじゃないんだよ

せっかく今日はおしゃれさんにもなったのに

みんな本当に変態さんだ

この字がそんなにおもしろいの?

おしゃれさんになるのは難しい

外見だけで判断しないでちゃんと中身まで見てくれるのはみんなのいいところ

でもいくら好きだからって、すぐに食べちゃおうとするのはびっくり

食べられるのはわたしの仕事

日の当たらない場所でただ腐っていくだけのバナ生はいやだ

今日はとっても忙しかった

サイゼリヤ西早稲田店かと思ったよ

平日だからって油断してた

でもみんなの笑顔がみれて良かった

あ 皮はちゃんとゴミ箱に捨ててね。最近のマリオカートは滑りやすいから

わたしのブログもスベりやすいけど

まだわたしの仕事は終わってないよ

みんなの立派なバナナになることが最後の仕事

ばななからバナナになるための大切な仕事

みんな最後までちゃんとわたしをみてね

!– /wp:paragraph –>

常識を疑え ~ハロウィンだけが仮装なのか~

ハロウィン。

いまや日本の恒例行儀ともなりつつあるイベント。

今年も多くの熱狂と問題を引き起こした。

しかしハロウィン時にはあれだけ多くの仮装者が街に溢れていたにも関わらず

いまや街で仮装している者は一人も見当たらない。

仮装することがそんなに楽しいのなら毎日仮装しても良いはずである。

ハロウィンは仮装をして楽しむ風習があるだけで

仮装をしても良い日=ハロウィンだけという訳ではないはずだ。

そのことに気づいた瞬間だった。

これまで抱いたあらゆる煩悩が仮装欲に変換され、油田の如く溢れてきた。

この油田の如く現れた仮装欲を満たすは油田の管理者になるしかない。

こうして僕は1日石油王として生活することになった。

石油王になって一番最初に感じたこと

                 寒い

とてもアラブとは思えない。

「寒さは気から。暑い時のことを考えれば寒さなど感じない」というのはとんでもない暴論だ。

アラブの仮装をしても全く暖かく感じない。

やはり寒さには厚着が一番だ。

石油王への尊敬からか通学中に好奇の目を浴びることはほぼなかった。

しかしキャンパス内に入ると状況は一変。

前からきた石油王が知り合いかどうか知りたいのか 道行く学生の多くが僕に乱雑な視線を投げかけてきた。

石油王を金でしか判断しようとしないのは不徳の極みである。

僕の家からとれた石油に頼りっぱなしの国民がとる態度とは思えない。

石油の価格など僕の機嫌しだいでいくらでも変わるのに。

あー むかつく 禁輸しよっかな~

自分の機嫌次第で世界が変わるなんて石油王はとてもやりがいのある仕事だ。

僕はこの仕事に魅了され、一生続けていきたいと契約更新を申し出ようとした。

しかし冷静になって考えてみると油田の如く湧いたのは仮装欲だけで、石油など最初から1mlも沸いてなかったのである。

つまり僕は石油王ではなくただ石油王の仮装をしただけだったのである。

石油がなければ石油王は目指せないが、仮装道具があれば仮装王にはなれる。 

この時僕は仮装王を目指すことを決意した。

仮装王になるためにはまずは仮装量だ。

これからは毎日仮装して大学に向かおう。 /p>

常識を疑え ~ 定期券は本当に必要か ~

毎日上京してしまうほど、上京をこよなく愛する僕たち通い大学生には必需品がある。

横浜の方言で定期と呼ばれるプラ切れだ。

このプラ切れがあると、一定期間 鉄のかたまり(以下かたまり)に乗り放題となる。

僕は NO steel Yes life を自称し、ほぼ毎日欠かさずこのかたまりを指名し乗り続けてきた。

しかしこのかたまりを定期指名するには多額の貢ぎが必要である。

確かに快楽のためには犠牲が不可欠だ。

これまで親の金を使ってまで一方的に貢ぎ続けてきた。

貢ぐことによって一定の快適さを手に入れた。

同時に勤務時間終了に伴う乗り損ねからの欲求不満。

そしてなにより正乗機会減少による快適さの喪失。

以上を考慮した際に明らかにパフォーマンスの低下がみえるかたまり。

本当に貢ぐことだけが愛なのだろうか。

そこにあるのは虚無感だけではないだろうか。

そう考えているうちに僕はこれまである乗り物に無償の愛を提供し続けていることに気づいた。

彼だ。

7歳の時彼に出会ってから僕は来る日も来る日も無償の愛を与え続けてきた。

しかし毎日上京生活を続けていくうちに、彼の筋力不足を痛感し、かたまりに浮気するようになってしまった。

筋肉がないならつければいい。

彼をガチムチにするのは僕の使命だ。

そう考えた僕は実際に彼を使い上京することにした。

当初、歩いて上京したこともある僕にとっては容易い挑戦だと思っていた。

しかし歩道橋という思わぬ落とし穴があった。

歩いている時にはただの階段でしかなかった歩道橋。

彼をお姫様抱っこして登るのは思ったより、きつい。

かたまりに比べればヒョロガリでしかない彼だが、目の届かないところで強くなっていた。

そうした苦難を乗り越え、大学にたどり着いた。

時間はかたまりを使った時の2倍 3時間が経過していた。

往復で6時間。

つまり1日の4分の1を彼に捧げたことになる。

時は金なりの理論で考えると、毎回かたまりの時よりも3時間 3000円多く貢ぐことになる。 

これまで無償だと思って捧げてきた愛は実はただの貢ぎだったのである。

このことに気づいた僕には強い怒りがわいてきた。

彼は無償の愛を受けるかのようにみせかけて、有償の貢ぎをだましとっていたのである。

かたまりはそんなことをしない。

一定額貢げば必ず快適な移動を提供してくれる。

もはやこれは貢ぎではなく投資である。

僕はかたまりに投資し、かたまりは僕に快適な移動を与える。

こんな素晴らしい交易関係を僕は一方的に捨てようとしていたのである。

これがもし外交で行われていたら、即戦争に発展するほどの問題であろう。

この事実に震えた僕はすぐに契約更新に急いだ。

これからよろしくお願いします。定期券様。

!– /wp:paragraph –>

咳にまつわるエトセトラ

咳が止まんない

止まんない

止まんない マジヤバい

マジ最近は咳するために生きてる感じ。

池ポチャが悪い。

野宿も悪い。

でもなにが一番悪いかなんて わかんねーよ。

まあそのへんは楽しかったからOK。

まあこれ↑読めば、だいたいわかる

咳を我慢するのはダメ。

ダメ。

だって急に咳き込むことになんじゃん。

急に咳き込むのと笑って吹き出すのは

見分けつかねーよ。

客から注文中に笑って吹き出したと思われるのは最悪じゃん。

ああー マジ咳ウゼー。

あの池には何がいんだよ。

マジで風邪か?

なんかもっとヤベーやつだろ。

まあそれもネタになるからあり。

とりまさっさと治れ。

おやすみ。



足臭にまつわるエトセトラ

なぜ人の足は臭くなるのか。

生後20年間足臭に悩まされている僕にとってこの問題は笑い話ではすまない。

うっかり自分の足臭を嗅いで死亡する人生にはなりたくない。

足臭を持った者の人生は悲惨である。

学校では自分の使った靴をたらい回しにされ、家では足を洗うまでは家に入るなと罵られる。

足の臭いと人権は反比例していくのである。

足臭をなんとか打破したい。

はやく人間になりたい。

こうして僕の足臭との戦いがはじまった。

まず僕は足臭の原因を突き止めることにした。

しかし開始早々大きな見落としがあることに気づいた。

足臭は足が存在するために起こるのであって、足を切ってしまえば足臭は起きないのである。

なんだ 簡単なことじゃないか。

 足を切るために包丁を足に向けたが、

ここで足を使わない移動方法の苦しみがフラッシュバックした。

一生コロコロでしか移動できないなら、足臭の汚名を受けたほうがましである。

もう一度足臭解決法を真剣に考えた。

そして出た答えは放置であった。

足臭=悪という固定観念を捨てればいいのだ。

第一 臭いというのがどうして悪になるのか。

この世の美味しい食べ物はたいてい臭い。

チーズ 納豆 肉 魚 どの臭いもとてもいい臭いとは言えない。

つまり臭い=美味しい 美味しい=善 

臭い=善なのである。

となると臭いという言葉は全て褒め言葉だったのである。

僕はこれまで足臭を悪だと勝手に思い込んでいた。

汚名と感じていたのも全ては思い込みで、実際は褒め言葉だったのだ。

他人の善意を勝手に悪と決めつける。

思い込みというのは本当に怖い。

勝手に悪いことと思い込んでしまうのは良くない。

これからは足臭に誇りを持って生きていこう。

私の生きた証