「企画」カテゴリーアーカイブ

ばなな

わたしはばなな

1本たったの20円

だけどもらった人は大喜び

普段20円もらっても喜ばないのに

あ 困ってる人もいたかな

そんなことどうでもいいか

https://dobunezumidesu.hatenablog.com/entry/2018/11/17/125718

みんなわたしを受けとるとすぐに脱がそうとする。

寒いから皮を着てるのに

ここはフィリピンじゃないんだよ

せっかく今日はおしゃれさんにもなったのに

みんな本当に変態さんだ

この字がそんなにおもしろいの?

おしゃれさんになるのは難しい

外見だけで判断しないでちゃんと中身まで見てくれるのはみんなのいいところ

でもいくら好きだからって、すぐに食べちゃおうとするのはびっくり

食べられるのはわたしの仕事

日の当たらない場所でただ腐っていくだけのバナ生はいやだ

今日はとっても忙しかった

サイゼリヤ西早稲田店かと思ったよ

平日だからって油断してた

でもみんなの笑顔がみれて良かった

あ 皮はちゃんとゴミ箱に捨ててね。最近のマリオカートは滑りやすいから

わたしのブログもスベりやすいけど

まだわたしの仕事は終わってないよ

みんなの立派なバナナになることが最後の仕事

ばななからバナナになるための大切な仕事

みんな最後までちゃんとわたしをみてね

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常識を疑え ~ハロウィンだけが仮装なのか~

ハロウィン。

いまや日本の恒例行儀ともなりつつあるイベント。

今年も多くの熱狂と問題を引き起こした。

しかしハロウィン時にはあれだけ多くの仮装者が街に溢れていたにも関わらず

いまや街で仮装している者は一人も見当たらない。

仮装することがそんなに楽しいのなら毎日仮装しても良いはずである。

ハロウィンは仮装をして楽しむ風習があるだけで

仮装をしても良い日=ハロウィンだけという訳ではないはずだ。

そのことに気づいた瞬間だった。

これまで抱いたあらゆる煩悩が仮装欲に変換され、油田の如く溢れてきた。

この油田の如く現れた仮装欲を満たすは油田の管理者になるしかない。

こうして僕は1日石油王として生活することになった。

石油王になって一番最初に感じたこと

                 寒い

とてもアラブとは思えない。

「寒さは気から。暑い時のことを考えれば寒さなど感じない」というのはとんでもない暴論だ。

アラブの仮装をしても全く暖かく感じない。

やはり寒さには厚着が一番だ。

石油王への尊敬からか通学中に好奇の目を浴びることはほぼなかった。

しかしキャンパス内に入ると状況は一変。

前からきた石油王が知り合いかどうか知りたいのか 道行く学生の多くが僕に乱雑な視線を投げかけてきた。

石油王を金でしか判断しようとしないのは不徳の極みである。

僕の家からとれた石油に頼りっぱなしの国民がとる態度とは思えない。

石油の価格など僕の機嫌しだいでいくらでも変わるのに。

あー むかつく 禁輸しよっかな~

自分の機嫌次第で世界が変わるなんて石油王はとてもやりがいのある仕事だ。

僕はこの仕事に魅了され、一生続けていきたいと契約更新を申し出ようとした。

しかし冷静になって考えてみると油田の如く湧いたのは仮装欲だけで、石油など最初から1mlも沸いてなかったのである。

つまり僕は石油王ではなくただ石油王の仮装をしただけだったのである。

石油がなければ石油王は目指せないが、仮装道具があれば仮装王にはなれる。 

この時僕は仮装王を目指すことを決意した。

仮装王になるためにはまずは仮装量だ。

これからは毎日仮装して大学に向かおう。 /p>

常識を疑え ~ 定期券は本当に必要か ~

毎日上京してしまうほど、上京をこよなく愛する僕たち通い大学生には必需品がある。

横浜の方言で定期と呼ばれるプラ切れだ。

このプラ切れがあると、一定期間 鉄のかたまり(以下かたまり)に乗り放題となる。

僕は NO steel Yes life を自称し、ほぼ毎日欠かさずこのかたまりを指名し乗り続けてきた。

しかしこのかたまりを定期指名するには多額の貢ぎが必要である。

確かに快楽のためには犠牲が不可欠だ。

これまで親の金を使ってまで一方的に貢ぎ続けてきた。

貢ぐことによって一定の快適さを手に入れた。

同時に勤務時間終了に伴う乗り損ねからの欲求不満。

そしてなにより正乗機会減少による快適さの喪失。

以上を考慮した際に明らかにパフォーマンスの低下がみえるかたまり。

本当に貢ぐことだけが愛なのだろうか。

そこにあるのは虚無感だけではないだろうか。

そう考えているうちに僕はこれまである乗り物に無償の愛を提供し続けていることに気づいた。

彼だ。

7歳の時彼に出会ってから僕は来る日も来る日も無償の愛を与え続けてきた。

しかし毎日上京生活を続けていくうちに、彼の筋力不足を痛感し、かたまりに浮気するようになってしまった。

筋肉がないならつければいい。

彼をガチムチにするのは僕の使命だ。

そう考えた僕は実際に彼を使い上京することにした。

当初、歩いて上京したこともある僕にとっては容易い挑戦だと思っていた。

しかし歩道橋という思わぬ落とし穴があった。

歩いている時にはただの階段でしかなかった歩道橋。

彼をお姫様抱っこして登るのは思ったより、きつい。

かたまりに比べればヒョロガリでしかない彼だが、目の届かないところで強くなっていた。

そうした苦難を乗り越え、大学にたどり着いた。

時間はかたまりを使った時の2倍 3時間が経過していた。

往復で6時間。

つまり1日の4分の1を彼に捧げたことになる。

時は金なりの理論で考えると、毎回かたまりの時よりも3時間 3000円多く貢ぐことになる。 

これまで無償だと思って捧げてきた愛は実はただの貢ぎだったのである。

このことに気づいた僕には強い怒りがわいてきた。

彼は無償の愛を受けるかのようにみせかけて、有償の貢ぎをだましとっていたのである。

かたまりはそんなことをしない。

一定額貢げば必ず快適な移動を提供してくれる。

もはやこれは貢ぎではなく投資である。

僕はかたまりに投資し、かたまりは僕に快適な移動を与える。

こんな素晴らしい交易関係を僕は一方的に捨てようとしていたのである。

これがもし外交で行われていたら、即戦争に発展するほどの問題であろう。

この事実に震えた僕はすぐに契約更新に急いだ。

これからよろしくお願いします。定期券様。

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咳にまつわるエトセトラ

咳が止まんない

止まんない

止まんない マジヤバい

マジ最近は咳するために生きてる感じ。

池ポチャが悪い。

野宿も悪い。

でもなにが一番悪いかなんて わかんねーよ。

まあそのへんは楽しかったからOK。

まあこれ↑読めば、だいたいわかる

咳を我慢するのはダメ。

ダメ。

だって急に咳き込むことになんじゃん。

急に咳き込むのと笑って吹き出すのは

見分けつかねーよ。

客から注文中に笑って吹き出したと思われるのは最悪じゃん。

ああー マジ咳ウゼー。

あの池には何がいんだよ。

マジで風邪か?

なんかもっとヤベーやつだろ。

まあそれもネタになるからあり。

とりまさっさと治れ。

おやすみ。



ヒッチハイクにまつわるエトセトラ 2

ヒッチハイクのヒッチはひっかけるという意味。
ハイクはハイキングのハイク

この事実はヒッチハイク=車という僕の固定観念を完膚なきまでに轢き殺した。

つまりヒッチハイクは何の乗り物でしても良いのである。

三輪車 車椅子 セグウェイ この世は乗り物で溢れている。

いったい何の乗り物でヒッチハイクをしようか。

そう胸を踊らせながら街の乗り物を眺めていた。

するとある乗り物に広大なヒッチスペースがあることを発見した。

ママバイシクルの後ろだ。

乗れる。そう確信した僕はヒッチバイシクルに挑戦することにした。

「自転車専門のヒッチハイクをしているのですが、よかったら後ろに乗せていただけないでしょうか?」

前回と同じく西早稲田駅前で片っ端からヒッチしてると、早速二人目でヒッチに成功した。

彼は「西早稲田キャンパスまでだけど」と言いながら唖然とした表情で快諾してくれた。

意気揚々と彼の後ろに乗ろうとしたその時、

「防犯登録の確認よろしいですか?」

突然背後から国家権力が表れた。

奴は防犯登録と言って僕たちに近づいてきた。

しかし、防犯登録は自転車の後ろ側にあるため、後ろの人間は必ず降りなければならない。

このことを考慮すれば、奴が防犯登録という名目でヒッチバイシクルを取り締まろうとしたのは言うまでもない。

奴らはこの画期的な移動方法が拡大することによって、自動車の使用者が減り、

奴らの主要産業である自動車産業が衰退することを恐れたのだ。

つまりこの取り締まりは国家権力による陰謀なのである。

僕はこうしてあえなく権力に破れた。

そして 終電の時間も近づいていた。

もう諦めて帰ろうと改札へ向かっていた。

そんな中、頭のなかにはヒッチバイシクルを思いついたときのワクワクが唐突に浮かんできた。

いくら国家権力であっても個人のワクワクまで奪っていいはずがない。

僕はワクワクを生き甲斐にして生きている。

ワクワクを捨てることはすなわち死を意味する。

奪われたならまた作り出せばいい。

ワクワクは永久器官。

もう一度ヒッチバイシクルを再開した。

十人ほど声をかけたあたりだろうか。

一人の中国人男性が止まってくれた。

先ほどの構文を使い、彼に話しかけた。

しかしどうやら意味がわかっていない様子。

そこで僕は思いきって正直に「自転車に乗りたい!」と語った。

すると彼は「足痛いの?」と心配しながら快く乗せてくれた。

流石の国家権力もこの純粋な優しさにはお手上げだっただろう。

p>ワクワクが国家権力に勝ったのである。

僕はこのワクワクという最高権力者を大切にしてこの先も生きていきたい。

あとがき 乗せて頂き本当にありがとうございました。

自転車の2人乗りは,原則的に違法となります。(道交法57条2項)

絶対に真似しないでください。


足を使わない移動方法にまつわるエトセトラ

人類は歩きすぎだ。

丸1日飯を抜くやつや風呂に入らないやつはいるが、丸1日歩かないやつはほぼいない。

人類は2足歩行動物だと言われれば、それまでだ。

しかしあまりにもこの通説にとらわれすぎなのではないだろうか?

歩行以外にも人類はまだ画期的な移動方法を秘めているのではないか?

僕は歩行歴が19年目に達し、歩くことに強い飽きを感じてきていた。

なので歩行以外の移動方法を開発し、交通革命を起こすことにした。

まず僕が思いついたのは下り坂で、爆発的なスピードを出すことができ、歩行の弱点である遅さを解決することができる転がり
(通称コロコロ)だった。

思い立ったが吉日。

僕は早速キャンパスの坂を利用してコロコロに挑戦することにした。詳細は↓まで

結論からいうと失敗だった。

確かに瞬間的なスピードは歩行を上回ったが、瞬間的な目のコロコロも歩行を上回ってしまったため、終わった瞬間すぐに大学のベンチにゴロゴロしてしまった。

これでコロコロは失敗した。

革命を起こすといった手前、簡単には引き下がれない僕はベッドでコロコロしながら、新しい移動方法を考えた。

しかし頭のコロコロだけは止まってしまい、何も浮かんでこなくなってしまった。

そんななかある衝撃的な映像が僕の目に飛び込んできた。

なんと女子駅伝の選手が膝に血糊を塗りたくりながら、ハイハイをしてゴールを目指していたのである。

その距離約200m。

走ることを専門にしている陸上選手が走りを捨ててまで、取り組むハイハイとはいったい何者なのか?

僕は生後まもなく以来19年ぶりの強烈なハイハイ欲に襲われた。

そして穴八幡宮から戸山公園までの200mハイハイに挑戦することにした。

痛い 開始わずか5mで膝に鈍痛が歩いた。

見ると膝が腫れていた。

ここで僕は大きな見落としに気づいた。

あの駅伝選手の膝についていたのは血糊ではなく本物の血であると。

彼女は血だらけになりながらハイハイしていたのである。

ここで痛みに負けるというのは、彼女の根性への冒涜だ。

僕は必死に手を動かした。

途中何度も「大丈夫か」と声をかけられた。

気づかいはとてもうれしいが、頭のことを聞いてるのか、膝のことを聞いてるのかわからなかった。

とりあえず膝は大丈夫だったので「大丈夫だ」と答えた。

すると頭のことを聞いてるのだとでも言いたげな困り顔で去っていった。

どっちなのかはっきりしてほしい。

そんなこんなで200mハイハイしきった頃には膝は見たことないほど真っ赤に腫れていた。

後から調べてみると彼女はすねの骨を折っていてまともに立つこともできてなかったとのこと。

そんななかで襷をつなぐというただ一つの目標のためにハイハイに手を出したのである。

途中何度も立ち上がって休んだ僕に比べるとあまりにも強すぎる。

歩行を捨てるにはそれだけの強さと覚悟が必要なのである。

僕にはまだ早すぎた。

いつか強くなってもう一度脱歩行に挑戦したい。



ヒッチハイクにまつわるエトセトラ

大学生はとにもかくにもヒッチハイクしがちだ。

何か変わったことをしようとなったときにすぐヒッチハイクに頼る

僕もそんな学生の一人だ。

しかし長年僕はヒッチハイクに関して大きな疑問を抱いていた。

勉強でも仕事でも万物は簡単なことからやっていくものだ。

ヒッチハイクは違う。いきなり100kmや1000kmに挑戦する。

これはどこかおかしい。

いきなりこれだけの距離のヒッチハイクが簡単に成功してしまうのなら、

ヒッチハイクは万物の道理に反し物事ではなくなってしまう。

いやそんなはずはない。ヒッチハイクだって必ず順序を踏むべきはずだ。

ヒッチハイクだって物事なのだから。

そんなわけで今回ヒッチハイク童貞の僕は

西早稲田駅から早稲田大学までの750mヒッチハイクに挑戦することにした。

駅から大学まで直線道路であることを過信していた僕は

正直すぐに車を捕まえられると思っていた。

何ならすぐに捕まえて、

駅から歩くくぐらいならヒッチハイクしたほうがいい

とマウントをとるつもりだった。

しかし 捕まらない 思った以上に捕まらない。

たまに捕まったかと思うとそれはタクシー。

今回きみに用はない。

そして近づく3限開始時間…

今日は下半身を鍛えすぎてまともにあるくことができないので、

ヒッチハイクしなければ大学にたどり着くことはできない。

諦めて帰ろうとしたその時

目の前で一台の車が止まった。

こんなチャンスはない。

車の前で待ち伏せし話しかけた。

すると心よくOKをもらった。

僕はこの方に行き先を戸山公園と伝えた。

しかし彼は戸山公園の場所をよく知らない様子。

とりあえず真っ直ぐ行けば着くと伝えると、

戸惑いながらも車を走らせてくれた。

そして1分後目当ての戸山公園が見えたため、

止めてくれるように伝えた。

この発言はヒッチハイク=長距離移動の思考を持っていた彼と車を大きく揺らした。

運転中にドライバーの心を乱すようなことを言ってはいけないと

強く感じたヒッチハイク体験だった。

PS 乗せてくださってありがとうございました。



自給自食にまつわるエトセトラ2

前回の予告通り今日から自給自食生活が始まった。

その名の通りこの生活では自分の食事は自分で調達しなければならない。

自給自食といえば黄金伝説くらいしか思い浮かばない、スラム街並みの発想力を持つ僕は芸人達が魚ばっかり食ってたのを思いだした。

なので平坦な道を上り坂に感じることのできるトレーニングにはぴったりなmy自転車に乗って釣りに行くことにした。

しかし祝日と大漁いうエサに釣られた釣られ師達によって釣り場は大混雑。

釣られたもの達が朝方さらに弱いものを釣ろうとしているという電車・電車の歌詞がこんなに身にしみたのは初めてだ。

そんなこんなで何とか場所を見つけ、釣りを始めた僕であったが、これまでの釣りとはなにかが違う。

そのなにかが考えてるうちに一つの結論にたどり着いた。

それは今回の釣りがまさしく生きるために行っているということである。

これまでの釣りであれば、たとえ釣れなくても家には飯があった。

しかし今回の釣りでは釣れなければ飯は無しだ。重い釣り道具がプレッシャーでいつも以上に重く感じる。

釣りを楽しむ余裕は全くない。ただその日の飯のために淡々と釣り続けるのである。

幸い物資にあふれた現世では僕はこの生活をいつでもやめることができる。

しかし縄文時代の狩猟・採集民にはその選択肢はない。

となると彼らは普段から明日の食事がどうなるのかわからないというとてつもないスリルのなか生活していたことになる。

ドングリは食い、狩りをもこなすこいつらはいったい何者なのか。

本当に強い。強すぎる。

僕らはその強い民族の末裔であるはずなのに、なぜこんなにも弱くなってしまったのか。

文明が発達し、強くになるに連れて人間は弱くなってなってしまったように感じる。

人間として強くなるには文明を弱くするしかないのだ。

蛇足はここまでにして本題の釣りに入ろう。

結論から言うとそれなりに釣れた。普段の釣りだったら大満足だろう。しかし今回の釣りは生きるために行ういる。

その観点からいえばやや物足りないのは間違いない。

こいつらと先日命懸けで採集したドクダミを油地獄に落としたのちできた弁当がこれである。

お世辞にも美味しそうとは言えないだろう。

しかし魚は言うまでもなく意外なことにドクダミから採集したときの強烈な臭いがほぼ消え、ソフトな臭いとなっていた。

このくらいの臭いだったらそれほど気にならないので、とても美味しく頂けた。

問題は量である。明らかに少ない。これでは縄文人のように強くはなれない。

あいつらはいったいどれだけの量の魚をとっていたのだろうか。

改めて縄文人のすごさを感じる企画であった。



自給自食にまつわるエトセトラ

唐突だが今週は自給自食をしようと思う。

しかし一口に自給自足といっても魚を釣るためのエサのことや公園の水道水が誰かによって処理されたものであることを考慮すると、きりがない。

よって今回は食材を自分で供給して、食糧自給率を限りなく100%に近づけることを目指す自給自食生活に挑戦することにした。

今日はその一環として野草を調達するために、野草と言えば河川敷だろうということで多摩川に向かった。

途中にドングリが大量に落ちているのを発見した。縄文時代の人々はドングリを主食にしていたはずだ。

ドングリは食える!

思わぬ幸運にテンションの上がった僕は見渡す限りのドングリを拾った。ドングリを拾ったのなんて小学校以来だ。

p>だからなんだ。正直何も考えずただ楽しいと思っていたことをやっていたあのころは輝いていた。

まずはあのころの自分ができたことをできなきゃあのころを越えることはできない。

ドングリを拾い集め、幸先の良いスタートを切った僕は次に河川敷へ向かった。

案の定 河川敷付近にあった公園には野草がわんさか生えていた。これこそ本当の草生えるだ。

テンションマックスの僕。これだけ草が輝いて見えたのは初めてだった。

しかしここで大きな問題が発生した。

どれが食べられる草なのか全くわからないのだ。

僕は正直食べられる野草については何の知識もない。

とりあえずスマホで野草について調べてみたが、違いが全くわからない。まるでサークルの集合写真のようだ。

そんな中である野草が僕の小学校時代の記憶を呼び覚ました。

そいつの名はドクダミだ。小学校時代、僕の友人は通学路にあるドクダミをちぎって食べていた。

当時彼はくさいまずいと言いながら必死に食べていたが、後で体調不良になった話を聞いたことはない。

そのことを思い出した瞬間、数ある野草から瞬時にドクダミを見つけ出す能力を手に入れた僕は一心不乱にドクダミをかき集めた。

一通り河川敷からドクダミを捕まえたあと、歩道にでると他の野草が生えないような道路脇にドクダミが大量に生えているのを発見した。

この時僕は大衆の中で個性を発揮するだけでなく、我が道をも突き進むドクダミの姿に感銘を受けた。

正直ドクダミは臭い。代弁みたいな臭いがするし、触ると手にも移る。

そんな植物としての欠点を持っていても、自信満々に他の野草のいない地帯に進出するドクダミの強さ。

僕もこの植物に見習ってうそでもはったりでもいいから、常に自信を持って行動していきたいと感じた。