コスプレコレクション 2018

僕がコスプレを始めてから昨日で2ヶ月がたった。

僕は毎日コスプレをすると決意してから、

さまざまコスプレに挑戦してきた。

ブログでは紹介できていないコスプレもいくつかあるので

今日はまとめて紹介しよう。



コスプレコレクション スタート!

① 石油王 11月14日 「~常識を疑え~ハロウィンだけがコスプレなのか」

② カオナシ 11月15日 「今日のコーデ」

③ バナナ 11月17日 「ばなな」

④ パナウェーブ研究所 11月21日 「~常識を疑え~見た目がヤバい奴は本当にヤバいのか」

⑤ ボタン 11月22日 「今日は何の日」



⑥ カラス 11月23日 「ゴミ箱は宝箱」

⑦ 中文 11月27日 「見習うべき体毛のしぶとさ」

⑧ 肉 11月29日  「肉が好きなら肉になれ

⑨ 目玉おやじ 11月30日 「命日のありかたについて考える」


⑩ おまけ 2019年 1月15日 いちごの日

黒崎一護



成人の誓い

今日は成人式だった。

僕の住む横浜市では毎年4万人近い新成人が

横浜アリーナに集まり成人式が行われる。

新成人の1人である僕だが

元々この成人式に行くつもりはなかった。

なぜなら成人式は基本スーツか袴を着るからだ。

服装の自由を求めコスプレを続けている僕にとっては致命的だ。

事実地元の同窓会は

ドレスコードがあったため出席することができなかった。



周りではみんなSNSに成人式や同窓会の様子を載せて、

普段は散々「過去にこだわるのはダサいと」

言い張っていたしゃおじょんですら、

「同窓会はめっちゃエモい」と陳腐な御託を並べていた。

そんな中で僕は成人式や同窓会は

僕には無縁の行事であると感じるようになっていた。



しかしふと成人式の招待状を見るとなんとそこには

「服装の規定はありません。」

という衝撃の一文が記されていた。

「行ける」

これで僕の行く手を阻む者はいなくなった。

横浜市は本当に寛容な都市だ。すばらしい。

#この横浜にまさるあらめや

僕は晴れ舞台ということで

最近の中では一番自信のあった

コナンの犯人コスプレで成人式に出席することにした。 

反響は凄まじかった。

すれ違った者はみんな振り返り、

写真をとられ、

挙げ句の果てには

「今日はハロウィンじゃねーよ」

と怒ったヤンキーにマスクをとられそうになった。

ただ冷静に振り返ってみると、

僕は今までの自分だったら

今日のような行動は絶対にできなかったと思う。

今までの自分は人に馬鹿にされることを恐れ、

自分のやりたいことを全くできていなかった。

今日 成人式を迎えたからといって

僕が本当の意味で大人になったのかはわからない。

僕は大人になっていくというのは、

ただ年長者の真似をして酒を飲んで騒ぐことではなくて、

自分がこれまでできなかったことを

できるようにしていくことだと思う。

僕は自分ができなかったことに挑戦し続ける

大人になれるように生きていきたいと思う。



原始人に戻ろうぜ

僕は今日大学で所属する中国語中国文学コースのメンバーで

早稲田駅伝に出場した。

僕は「お前はエースだから」という適当な理由で

最長区間6km 花の2区を走らされることになった。



僕は部活をやっていた頃には10km近く平気で走っていたので、

最近まで6kmなんて余裕だと思っていた。

しかし実際にマシンで6km走ってみると

想像以上にキツイ。

よくマラソンなどでは

「1km3分とスローペースな展開です」

といった実況があるが、

素人からすれば1km3分ペースどころか1km5分ペースも怪しい。

マジで意味不明な世界だ。

本当に意味不明な奴とは

長距離ランナーのことを言うのかもしれない。



迎えた当日、

僕はタスキを受けると

日頃の運動不足から次々と後続ランナーに抜かれ、

みるみる順位を落としていった。

おそらく50人ぐらいに抜かれたのではないだろうか。

今日ここに「50人に抜かれた男」という

意味深な称号が僕の中に刻まれた。

こうしてヘロヘロになりながら、

なんとかタスキを繋いだ僕は

朝からろくに食事をとっていなかったからか、

激しい空腹に襲われ、

駅伝後すぐに僕たちの行きつけの中華料理店

「老北京」でがっつり昼飯をとった。

僕たちの詳しい駅伝事件簿はこちらまで→https://dobunezumidesu.hatenablog.com

空きっ腹と中華の相性は抜群。

この昼飯は恐らく

僕の人生で幸せな食事ランキングの

上位に間違いなく入るだろう。

昼飯をとったあと僕たちは足早に解散し、

僕は神速で家に帰り、

シャワーで汗を流し、

食欲から転換されて生まれた性欲を子孫の殺害で満たし、

最後に現れた睡眠欲を僕が生まれた時の姿で満たした。

こうして僕の三大欲求フルコース生活は幸せに包まれて幕を閉じた。



改めて幸せだった今日という日を振り返ろう。

体を動かす→飯を食う→子孫を残す→眠る

これはまさしく原始人の生活だ。

いくら文明が発達したとはいえ、

人間が幸せを感じる根本的な要因は

変わっていないのではないか?

僕を含めて現代人は幸せとは何なのか考えることが多いが、

もしかするとその答えはとても単純なところにあるのかもしれない。

幸せになるために原始人に戻ろうぜ。



カオスを愛そうぜ

人は全く理解できないカオスに遭遇すると

言葉を失う。

今日 僕はこのことを人生で一番強く実感した。



というのも今日の僕のコスプレが

あまりにもめちゃくちゃでカオスだったからだ。

カオスの中から必死に抜け出した者から

「今日は何のコスプレ?」と聞かれたが

僕自身もあまりはっきりとした答えは出せず、

「カオスのコスプレだ」と言うほかなかった。

この意味不明な回答は

その場のカオスをさらに増長させ、

結果的に相手はノーカオス空間に戻すために

コスプレから話を反らすことを強いられた。



このように世間ではあまり受け入れられない

カオス。

しかし僕はこのカオスこそが世界を

おもしろくしていくのではないかと思っている。

なぜならノーカオスな空間はいわば日常的空間。

日常的な空間は安定してはいるが、

何度も繰り返された空間なので、

面白みはなく、他人との話題にも上らない。

一方カオス空間は

文字通り混沌とした空間なので、

不安定だが、日常的な空間から見れば

おかしな空間であり、

発生回数も少ないので

面白さが生まれたり、他人との話題に使える可能性がある。



おかしいという言葉には、

奇妙だという意味と面白いという意味の二つがある。

つまり奇妙と面白いは紙一重で、

この二つを生み出すことができるカオスには

この世界をおもしろくする可能性を強く秘めているのだ。

だからもっとみんなカオスを愛そうぜ。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

ご存知の通り僕は毎日コスプレで登校している。

コスプレしているとよくこんな質問をされることがある。

「家からこの格好なの?」

答えはもちろんYESだ。

僕はコスプレも私服の一つとして捉えている。

言うなれば「家から私服なの?」

と聞かれているようなものである。



しかし家からコスプレすることによって、

少々困ったことも起きている。

それは両親との遭遇だ。

父親はさほど関心を示してないものも、

母親は毎回「恥ずかしいからやめてくれ。」

「警察に捕まったらどうするんだ。」と

何かしら苦言を呈してくる。

そこで僕は警察に捕まることも、

恥ずかしいと思われることもないコスプレを考えた。



出た結論は「捕まえる側になれば良い」だった。

服装の問題で警察に捕まるのが怖いなら、

警察と同じ服装をすれば、

捕まることはないのではないか。

それに日本の平和を守る警察官の格好は

カッコよくて、恥ずかしさなど全く無い。

そして今日1月10日は110番の日。

この画期的なコスプレを試すには絶好の機会だ。

こうして僕の1日警察官生活が始まった。

警察官になった僕はこの世の悪事を

次々と摘発するために東京と神奈川を往復し、

目を光らせていたが、

ここは治安世界一の日本。

そう簡単に悪事は見当たらない。

むしろ警察官のコスプレをして、

あたりをキョロキョロと見渡し挙動不審な僕が

一番怪しい存在だった。



この時僕はニーチェの

「   深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ 」

という言葉を思い出した。

怪しい存在にならないようにするために

警察官のコスプレをした結果、

街で一番怪しい存在になってしまったのだ。

結局のところどんなコスプレをしても、

怪しい存在になってしまうのは避けられない。

母親もそのうち呆れて何も言わなくなってくるに違いない。

だから僕は割りきって

今まで通り奇怪なコスプレを続けていくだけだ。

継続の難しさ

ブログを初めてから3ヶ月がたとうとしている。

更新を止めた日にPVが落ちることに気づいてから

できるだけ毎日更新するようにしている。

ブログを始める前は

「書きたいことがいっぱいあるから、

毎日更新なんて余裕だ。」と思っていたが、

いざ始めてみると当初書きたかったネタは

すぐに尽きてしまい、

日々ネタ探しに奔走することになった。



そして今日もブログと同じ時期あたりに始めた

コスプレのネタ探しをしていると

衝撃の項目を見つけた。

2006年 – 『オペラ座の怪人』が『キャッツ』を抜き、ブロードウェイ・ロングラン記録を更新

どんな記録なのかと思って詳細を調べてみると、

1988年から現在も続いており、

その公演回数はなんと11870回に及ぶという。

個人のブログとは違って、

観客を楽しませ続けなければ

続けたくても続けることのできない

ミュージカルの世界で

これだけ長い間公演を続ける

「オペラ座の怪人」になんとしてもあやかりたい。

こうして僕は今日 オペラ座の怪人になった。

僕自身あまりミュージカルに詳しくないこともあり、

あまり今日のコスプレは伝わらないのではないか

という不安を抱えていたが、

すぐにオペラ座の怪人でしょと気づいてくれる者もおり、

改めてロングラン作品の知名度の高さを実感した。



中には怖がる者もいたが、

今回は怪人なのだから怖がられて当然。

むしろ笑い者にされるほうが悲しい。

奇怪に思われるから怪人なのであって、

笑われてしまえばそれは笑人だ。

話がそれたが、

オペラ座の怪人は初公演からすでに30年が経過している。

僕は30年後自分がどうなっているかなんて

想像がつかないけど、

30年後も今続けているコスプレやブログが何らかの形で

続けていたらすごいことだと思う。



更正への道

半年ほど前、僕は酒に溺れていた。

昼から友人と授業を休んでは

戸山公園やサイゼリヤで酒盛りをしていた。

当時は酒に酔っていれば何でも許されると思って、

酒の勢いに頼り大学の植え込みを蹴散らしたり、

もらったビラを目の前で捨てたりといった

悪事を働いていた。



これらの迷惑行為は

僕の脳内裁判所で有罪判決がなされ、

判決内容の決定が待たれていた。

そして先日ついに判決が確定した。

判決は執行猶予100年以内の死刑

信じられなかった。

酒に溺れることがどれだけ重罪であるか

改めて実感した。

執行猶予は100年以内。

これは今後の行い次第で変動するそうだ。

僕は2度と酒に溺れないことを誓うとともに、

少しでもこの猶予を伸ばし、

2度と僕のような人間が現れないようにするために、

酒を根絶する運動を行うことになった。



幸いなことに僕は現在禁酒会の代表を務め

酒の虚構性を広める活動をしている。

そしてちょうどここ一週間の間は、

禁酒会でアルハラ防止ステッカーを配布している。https://twitter.com/sakenitayoruna/status/1082116121833009152?s=19

僕は半年前の罪を償うために、

このステッカー配布を

更正の一歩とすることにした。

酒に溺れた過去を忘れてはいけない。

犯罪者は犯罪者らしい格好をしなければならない。

この格好でステッカーを配っても

誰ももらわないのではないかと恐れていたが、

みな気にせずステッカーを受け取り、

中には 「犯罪者だ」と言って喜んでステッカーを受け取る者もいた。

一度罪をおかした者に対して

暖かい反応をくれる。

この世界もまだまだ捨てたもんじゃない。

この反応を無にしてはいけない。

僕は2度と酒に溺れない。



グールになって分かったこと

僕は今日グールになった。

新年の誓いとして

新しい自分になりたいと願ったからかもしれない。

こんな形で願いが叶うとは驚いた。

しかし今日グールになったことで

見えてきたことがあった。



東京喰種

東京を舞台にし、

人の姿をして人を食べるグールと人間との戦いを描いた

人気漫画である。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%96%B0%E7%A8%AE%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB

この種の漫画はしばしば人間VS怪物の構図が

出来上がり、

読者も人間側に肩入れすることになる場合が多いが、

東京グールはグール側にも焦点を当て、

全てのグールが人間に危害を加える存在ではなく、

中には人間界に利益を与えるグールもいるということを見せて

読者が一概にグール=悪

と決めつけることができないようになっている。

東京グールではそういったグールの多様性に気づかず、

人間側は一方的にグール=悪というレッテルを貼り

強引な捜査を行い、

グールの人間に対する憎悪をさらに深めていく。



僕はこのグールと人間の関係性が

実生活にもあてはまると感じた。

一度も会ったことない人に対して、

他人からの話だけで

その人に対して根拠のないレッテルを貼る。

そんなもん会ってみなきゃわかんねーだろ。

会う前から勝手にイメージを作り上げて、

違ったら失望するってわがまま過ぎませんか?



僕もこんな偉そうなことを言っているが、

しばしば見た目やエピソードを

人の判断材料に入れてしまうことがある。

でもそれは本当に良くないことだと思う。

人が人に抱く印象なんて

違ってていいと思うし、

実際関わった経験だけで

印象ができれば人それぞれ違う印象が出来上がるはずである。

人から聞いたエピソードを頼りにして印象を作り上げてしまうと、

みんなが同じ印象を抱いてしまい、

その人にとって大きなプレッシャーになる。

例 AさんにみんながAさんは良い人という同じ印象を持つと、

Aさんは常に良い人として振る舞わなければならなくなる。

このように他人に安易にレッテルを貼ることは

人を苦しめる良くない行為である。

僕もこれから気をつけていかないといけない。

以上グールになって分かったことでした。

未読無視より既読無視

既読機能

ラインのサービスが始まってから

8年がたとうとしているが、

いまだに論争の絶えない機能である。



元々は災害時などの

メッセージを返すことができない時に

既読表示をすることで

安否確認をするために生まれた機能であったが、

現在は既読をつけることで

相手にメッセージを返す気がないと思われるのを恐れて、

既読をつけないまま放置する

通称 未読無視をしてメッセージをためている者も多い。 例 しゃおじょんhttps://dobunezumidesu.hatenablog.com

僕はこの未読無視という行動に大きな疑問を感じている。



既読無視は相手を傷つけるといって、

未読無視しても結局無視してることは変わらないし、

未読無視されたメッセージは

通知という機能を通じて

「読んでくれ!」という魂の叫びを伝えており、

未読無視は相手だけでなく

このメッセージ達による魂の叫びまで

無視してるのである。

中には未読のままメッセージを削除する者もいるが、

「読んでくれ」と助けを求めるメッセージを

無慈悲に殺す姿は冷酷極まりない。

恐ろしい まさに鬼畜米英だ



 一方「既読をしたら返事を返さなければならない」

という謎風潮も未読無視を優勢にしている

原因だと僕は思う。

冒頭にも述べたが、

既読機能は元々返信したいけど、

できない人の安否確認のために生まれたのであって、

「既読=返信できる」 にはならないはずである。

既読はできても返信はできない

というタイミングは誰にでもある。

いちいち既読がついたことにカリカリしないで、

「あ こいつ 既読ついたから一応生きてるんだな」

ぐらいの気持ちでいたほうが、

メッセージを送った側も送られた側も

幸せではないだろうか?

送られた側の謎配慮も

送った側が傲慢な可能性があるから

生まれることを考慮すると、

送った側の寛容さが未読無視をなくすうえで、

とても重要なのではないかと思う。



ぴーえす

僕は断然既読無視派ですぐに

何でも既読をつけるけど、

元々来るメッセージ数が少ないから、

既読つけも簡単なのかも。

一度既読つけが追い付かないくらい

メッセージが来るのを体験してみたい。

赤ちゃん最強論

僕は大学で中国語を専攻している。

大学入学直後から勉強を始めたので、

学習歴はそろそろ2年になる。



そんな僕だが先日中国へ行った際に

とても悲しい場面に遭遇した。

中国の赤ちゃんが流暢に中国語を話していた。

僕がテキストを買って、必死に勉強しても

全く現地人の会話を聞き取れないのに、

赤ちゃんたちは何の勉強もせずに

たった数年で会話できるようになるのだ。

恐るべし赤ちゃんの学習能力。



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世間では赤ちゃんはか弱い存在と見られがちだが、

冷静に考えれば赤ちゃんは

僕らができないことを意図も簡単にやってのけている。

例えば赤ちゃんは泣きたい時には泣き、

食べたいときには食べる。

トイレしたいときはその場で用を済ませ、

眠りたいときにすぐ眠る。

この一見単純そうに見える赤ちゃんの行動だが、

僕らの中でこれを完璧に真似できる者はいない。

僕らは一般的に

赤ちゃんから成長していくと考えられている。

しかし僕らは世間の目もあって、

なかなかやりたいことができていないことも多い。

やりたいことを周りを一切気にせず

すぐに実行する赤ちゃんから学ぶことはとても多い。



p>なぜ赤ちゃんは圧倒的な学習能力と行動力を持っているのか?

答えは無知だ

無知であるゆえに全てのことをどんどん吸収していくし、

無知であるゆえに怖いもの知らずで、どんどん行動していく。

僕らは成長として

ただ知識をつけていくだけではなく、

赤ちゃんのように何でも

すぐに行動していくことも必要なのかもしれない。

行動していくことによって学ぶことも多いのではないかと僕は思う。