自給自食にまつわるエトセトラ2

前回の予告通り今日から自給自食生活が始まった。

その名の通りこの生活では自分の食事は自分で調達しなければならない。

自給自食といえば黄金伝説くらいしか思い浮かばない、スラム街並みの発想力を持つ僕は芸人達が魚ばっかり食ってたのを思いだした。

なので平坦な道を上り坂に感じることのできるトレーニングにはぴったりなmy自転車に乗って釣りに行くことにした。

しかし祝日と大漁いうエサに釣られた釣られ師達によって釣り場は大混雑。

釣られたもの達が朝方さらに弱いものを釣ろうとしているという電車・電車の歌詞がこんなに身にしみたのは初めてだ。

そんなこんなで何とか場所を見つけ、釣りを始めた僕であったが、これまでの釣りとはなにかが違う。

そのなにかが考えてるうちに一つの結論にたどり着いた。

それは今回の釣りがまさしく生きるために行っているということである。

これまでの釣りであれば、たとえ釣れなくても家には飯があった。

しかし今回の釣りでは釣れなければ飯は無しだ。重い釣り道具がプレッシャーでいつも以上に重く感じる。

釣りを楽しむ余裕は全くない。ただその日の飯のために淡々と釣り続けるのである。

幸い物資にあふれた現世では僕はこの生活をいつでもやめることができる。

しかし縄文時代の狩猟・採集民にはその選択肢はない。

となると彼らは普段から明日の食事がどうなるのかわからないというとてつもないスリルのなか生活していたことになる。

ドングリは食い、狩りをもこなすこいつらはいったい何者なのか。

本当に強い。強すぎる。

僕らはその強い民族の末裔であるはずなのに、なぜこんなにも弱くなってしまったのか。

文明が発達し、強くになるに連れて人間は弱くなってなってしまったように感じる。

人間として強くなるには文明を弱くするしかないのだ。

蛇足はここまでにして本題の釣りに入ろう。

結論から言うとそれなりに釣れた。普段の釣りだったら大満足だろう。しかし今回の釣りは生きるために行ういる。

その観点からいえばやや物足りないのは間違いない。

こいつらと先日命懸けで採集したドクダミを油地獄に落としたのちできた弁当がこれである。

お世辞にも美味しそうとは言えないだろう。

しかし魚は言うまでもなく意外なことにドクダミから採集したときの強烈な臭いがほぼ消え、ソフトな臭いとなっていた。

このくらいの臭いだったらそれほど気にならないので、とても美味しく頂けた。

問題は量である。明らかに少ない。これでは縄文人のように強くはなれない。

あいつらはいったいどれだけの量の魚をとっていたのだろうか。

改めて縄文人のすごさを感じる企画であった。



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