常識を疑え ~ 我慢することが大人なのか ~

大人になるとはいったい何なのか?

http://kokoronoiyasi.com/spirit-8-50

このサイトでは自分の感情をコントロールすることだと指摘している。

は?

なんで自分の感情を抑えることが大人につながるの?

確かに感情を抑えられれば、その場で大きなトラブルが起こることはないかもしれない。

ただ感情を抑える=大人という風潮が行きすぎると、

全員が感情を抑えて感情的になった奴に合わせることになる。

つまり感情的な奴 自己中が得をする世界ができあがる。

例えば飲食店で無茶なクレームを入れてきた奴には

店がそいつの要求を限界まで飲まないといけなくなる。

明らかに間違っている。

僕はここで思うのは感情的を抑える=大人という考えを捨てて

自分の考えを互いにぶつけ合えばいいのではないか。

言い換えれば互いがそれぞれの自己中を通し合うのだ。

クレームが入れば店が反論し、怒鳴り散らしている奴がいれば、こっちも怒鳴り散らす。

そのほうが絶対に気持ちいい。

わかりやすくするために

一度感情をぶつけることを迷惑かけることに置き換えて考える。

迷惑をかけてはいけないという感情が行きすぎると

他人が迷惑をかけてきたとき、

俺は迷惑をかけていないのにという感情が先走って不寛容になる。

人間生きていれば絶対何かしら人に迷惑をかける。

道を歩けば道路は壊れていくし、店で食事を取れば店員の仕事を増やす。

要は互いに迷惑をかけるのはお互い様なのである。

感情も同じである。

感情を持たない人間などいない。 

感情を抑えることを美徳とし、感情を抑えあって生活することにストレスを感じるぐらいなら、

いっそ自分の感情を全てぶちまけてぶつかり合ったほうが気持ちいいに決まってる。

もちろん常に自分の感情が通る訳ではないが、

その時は互いが感情をぶつけ合ってどっちが正しいか決めればいい。

僕はみんなが自分のしたいと思ったことをすぐにできる社会になって欲しいと強く思う。

例えるならサル山だ

怒りたいときに怒って、 食べたいときに食べて、寝たいときに寝て、トイレしたいときにトイレする。

サルたちは本当に本能のままに生きている。

時にはケンカもして、どちらが正しいか争い合う。

くだらない社会の固定観念に縛られて

自分のしたいことができないことにストレスを抱える人間が

本能のままに生きてストレスとは無縁のサルから進化したと言えるのか?

感情を抑えるのが大人だとか言って、

その場だけいい顔して、

後であいつは常識がないとか陰口言うのダサすぎませんか?

常識がないっていう主張を通したいなら、

その場で粘ればいいじゃないですか?

(常識がないってよくわからないですが)

こうやって自分の主張を通すのを諦めることが大人だって風潮が強まると

結果的にみんなが一部の自己中たちに合わせていって自己中たちが得をする。

この社会では自己中が得することを心得てあえて無理を通す自己中

そんな自己中を嫌いながらも、

嫌いと言えず自己中に合わせて、ストレスをためる自称大人。

もはやどっちが賢い大人なんですか?

最近の若者は自己中とか言ってる暇があったら

あんたも自己中になればいいでしょ。

僕はこの世界で自己中が得する限り、自己中で生きていきたいと思う。

いつか皆が自己中であることが真の大人であるということに気づくことを信じて。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。