正論への怒りと受容

「民度」

ここ数日この言葉は僕を大いに悩ませた。

きっかけは某フリマサイトでのこんなコメントだった。

民度? 様無し? 字の汚さ?

は?

何を言ってるんだこいつは。

まず宛先の件。

僕はこれまでフリマサイトでの発送で宛先の「様」を書き忘れたことは無い。

ただしかし、1日の発送数が多いため、書き忘れていないとも言いきれない。

たった300円の商品が入った手に取って10秒で破り捨てる封筒に「様」が書いていなかったため、憤慨し評価を下げるほど気分を害したのならもちろん謝罪する。

ただそれなら「様が書いていなかったです。気をつけて下さい」と一言メッセージを送ってくれれば済む話じゃないのか。

なぜ「字の汚さ」と「民度」という言葉が出てくるのか。

字が汚いと言えど少なくとも送った商品はお前様の所にたどり着いた。

宛先というのは郵便局員様が分かるように書くものである。

宛先の字がどうだろうと郵便局員様さえ理解できれば何の問題もないはずだ。

つまり宛先というのは郵便局員様に向かって書いているものであり、お前様に向かって書いているのではない。

よってお前様が僕様の字の良し悪しについて語る資格は元々無いはずなのだ。

にもかかわらずこいつ様は僕様の字を批判するに留まらず、「民度」という概念まで持ち出してきたのだ。

お前様はなぜ一度も会ったことのない人様の民度が文字を見ただけで分かるのか。

人様の民度にそこまで敏感なのになぜ最も民度の低いといわれる無料フリマサイト様に重鎮しているのか。

だいたい最低価格の300円の商品で不特定多数の見る評価欄に適当な根拠で人様の民度について語るお前様の民度はいかほどなのか。

僕は怒りに震えた。

なぜこんな評価を受けなければならないのか。

毎回わざわざ手書きで一生懸命宛先を書いているのに。

怒りを消す一番の方法は忘却だ。

僕は可能な限り評価欄を見るのを止め、この理不尽を忘れることに努めた。

「字の汚さも相間って民度の低さが伺えます。」

別の購入者に宛名を書く時、いきなり「半額にしろ」と詰め寄る訳のわからない値下げ要求をされた時、はたまたニュースで飲食店に次々と自粛要求の紙を貼る自粛警察の様子を見た時。

そんな何気ない瞬間にあの言葉は餌が来た時にだけ水面に現れる気味が悪い鯉の群れの如く僕の脳裏に浮かんできた。

忘れたいのに忘れられない。

なぜ僕はたった一人のフリマサイトのユーザーが発した言葉に悩まされているのか。

夜はぐっすり眠り、朝昼夜しっかり食事をとって考え続けた後、僕はあることに気づいた。

あの言葉は正しい

人が一番怒りを覚える瞬間とは何か。

それは相手の指摘が図星の時である。

冷静に考えれば僕の字はとてつもなく汚い。

僕の平均字

少なくとも僕は自分への宛名がこの字だったら汚いと感じる。

これまで一切の苦言を呈することなく僕に良い評価を与えた人々たちも僕の字に関してきれいか汚いかと問われていたら、汚いと答えるだろう。

そして正しい指摘をした人に対して、その人のコメントを個人ブログに晒し、反論しようとする僕の民度は間違いなく低い。

もしこのブログがあの人の目に留まれば、間違いなく「字は人を語る」という価値観の更なる根拠となるに違いない。

こうしてあの言葉の正しさに気づくと、これまでの苦悩が嘘のように僕の怒りはスーと消えていった。

あまりにも正論過ぎる指摘を受けた時、人は現実を受け入れることができず、論点を反らし、やみくもに怒りをぶつける。

怒りを覚えた時こそが自分を見つめ直す良い機会なのかもしれない。



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