「無」の生活への受容

帰国したから半年が経った。

一時期なシノギ削りのためのはずだった帰国も某ロナの影響によってずるずると半年まで延びてしまった。

この半年間を一言で例えるなら間違いなく「無」である。

勉強、労働、ゴロゴロ。

僕は半年間これらのルーチンワークをただただ淡々と続けてきた。

「マイホビーイズゴロゴロ」を自称し、元々予定が無ければ、ほとんど家を出ることのない僕にとってこの生活は決して苦ではない。

しかし中国各地を転々とするホームレス旅を続けていた半年前との生活落差は凄まじい。

マイホームにどっぷりと浸っている今の姿を半年前のホームレスだった僕はすぐに信じることができないだろう。

何かが起きることが当たり前だった旅生活から何も起きないことが当たり前な家生活。

僕の生活はこの半年間で完全に「有」から「無」へと変わった。

無の生活へ変わったいま、ドキッとする質問がある。

「最近何してるの?」

友達から何気なくされるこの質問。

有の生活時であれば、特に考えることなくすぐに「旅してる」とでも言えるのだが、無の生活の今では若干の思考が必要になる。

「そういえば最近自分て何してるんだろう」

とりあえず最近やっていることを思い返して説明するけれど、どこか自信無さげになってしまう。

自分がやっていることを自信満々に説明できないというのは、自分の生活に100%満たされている訳ではないということの証拠なのだろう。

すっかり削りがいの無くなったシノギに関してもそうだ。

お金が増えているというのは、裏を返せばそれだけお金を使ってでもやりたいと思うことが減っているということだ。

世の中 楽しいことをするにはどうしてもお金が必要になる場合が多い。

今までの人生を振り返ってみても、本当に充実していたと感じる時期は必ずお金が減っている。

貯蓄の増加はワクワク度の低下なのである。

だがしかし前述した通り、僕はいまの生活が嫌いという訳ではない。

冷静に考えればこれまでの人生「無」であった時間のほうが圧倒的に多い。

いわば人生は「無」であるのが当たり前なのだ。

人生が「無」であることに絶望する必要は全くない。

「無」の時があるからこそ、「有」の時と現れる。

永遠に「有」の生活というのはある意味永遠に「無」であるのに変わらない。

当たり前の「無」を受け入れて、「有」の時を待つ。

そのくらいのモチベーションで日々を生きてゆきたいと常に思う。


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